例え良家と言ったって、三男ともなれば大した価値もない。人よりも多くのものは持っていたが、まあそれだけと言えばそれだけのことだ。

良い家と、金と、容姿。
欲しがることもなく持っているそれは、世間一般からすれば、努力しても欲しいものである。
であるなら、それに価値を見出だせない俺と言うのは、なんと罰当たりであろうか。

そんなことよりも、いとしい声に揺り起こされる方が、何倍も幸せであるようにおもうのだ。




「…………」
「いい加減に支度しないか」

鞄を持ち上げた聖川のやつが、やれやれとばかりに息を吐いた。いつの間に――朝になったんだろう。昨夜確かに閉めたカーテンは今はもう開いていて、朝の光を部屋に染み込ませている。昨日の余韻もへったくれもなかった。俺はこっそり息を吐いた。

「授業に遅れてもいいのか?」
「授業――はは」
「何がおかしい」

聖川は微かに眉をひそめ。その背越しに時計を伺えば、授業まで30分を切っている。

「シャワーを浴びなければ、授業には出られない。もっと早く起こしてくれれば良いのに」
「声は掛けた」
「もっときちんと起こしてくれよ」
「そこまでしてやる義理はない」
「あら――そう」

今はきちんと起こしてくれたって言うのに?…愚鈍なふりで流してやることにした。理由はわからないでもない。

「休むよ」
「…今日も」
「皮肉か?」
「違う!」
「あそ。今日『も』、休むのさ」
「――そうか」

鞄を抱えた聖川の背中を、いってらっしゃいと当たり障りのない言葉で見送る。扉が閉まれば、世界は完結した。一度は起こされて上げた背を再びベッドに横たえ、何を注視するでもなく天井へ視線を向ける。


――もう、何日も部屋を出ていない。聖川が心配するのも当然だろう。

――もう、何日も聖川の顔しか見ていないのだ。

もう、何日も聖川の声しか聞いていない。



「これは逃避だ…」

頭ではわかっているつもりで、でも実感もなくて、口に出しても曖昧なのは、逃避に気付くことからすらも逃避しているからだろうか……
視線を下げて、見つめた先の携帯は、時折けたたましく着信を告げている。気が狂いそうで見ていない。ならば捨ててしまえばいいのに、捨てられないのはどこかでわかっているからだ。

『――近いうちに俺は。』

逃避。目を伏せた。





「神宮寺」
「―――ま、」

いつの間にか昼になったらしい。一人きりだったはずの部屋には聖川。聖川は寝転ぶ俺を見下ろして、ほら、と手にしたものを差し出した。

「飯だ」
「何?」
「サンドイッチ」
「ありがとう」

聖川は俺に包みと押し付けると、ベッドの縁に腰を下ろして自分も食事を始める。別に頼んだ訳でもないのに、俺が引きこもり始めてから聖川はそうしてくれている。さりげない優しさが痛くて、こいつこれをアピールできればもっともてるだろうに、とお節介なことを思った。…関係ないのにね、俺には。


「それじゃ、俺は」

授業に。と、そそくさと聖川はベッドから腰を上げた。ああ、うん――と無味乾燥に見送って、また閉じる世界。苛立ちに放り投げたごみが外れ、ふて寝とばかりにベッドに引っ込んだ。

言おう、言おうと―――部屋に引きこもっているのに、まだ言えないこと。

当たり障りのない言葉なら幾らだって呟けるのに、肝心な言葉だけはどんどん腐っていく。腐った果実みたいに落ちる前には言いたいのに。喉をかきむしって声帯を取り出したなら伝わるだろうか?それとも、もう――言わないで、おこうか。
わざわざ裸の王様に、なる必要はどこにもない。




「聖川、おかえり」
「…ただいま。どうした、起きてるなんて、珍しい」
「まあ――ね」

ちょっと、と言葉を濁して会話を切り上げる。手招きすれば、目を伏せてから聖川は来た。ベッドに片足を乗り上げた聖川の腕を掴んで引きずり込む。シャツを捲り上げれば、昨日残した痕がまだ色濃くある。歯を当てれば、一致するだろうそれに、昨晩こいつがどんな風に痛がったか。そんなことは俺しか知らない…と煽るものがある。

できることならいっそ、俺の名前を書いてやりたいよ、ねえ。そうすれば、お前は、俺の――……


「けっ、こん」
「…え?」

はっきりと息を飲んだ音。

「結婚、してよ」
「…………」

本気だよ、俺。…聖川は答えてくれない。

三男なんて種馬だ。全ては神宮寺家のために。卒業したら多分、デビューできても多分、俺は家に縛られている。
これからもいろんなおんなのこに出会って、抱き締めて、キスして、セックスして。
最後は家のために最も、有益な誰かと結婚して子供を作って……愛はなくても子供はできる。
でも、そんなの嫌なんだよ、ねえ……だから言って。お願いだから言って。俺のこと――…


「結婚しようよ」
「神宮寺…」

困惑も露に呟いた聖川は、さっきから目を合わせてくれない。横顔が躊躇っているのは、拒否の言葉を探すためなんだろう。
ちゃんと起こしてくれないのもそう。深く関わりたくもないのに、見捨てることもできないんだろう、おやさしいこと。放り出すのは、出会った時の輝いた季節と、写し鏡の自分を汚すようで。

俺はお前の、そんなところが…

「……嘘だよ」

引き寄せた体を押し返して、俺は久方ぶりにベッドを降りた。シャワーを浴びる前に携帯を取り上げれば、笑ってしまうくらいの受信メールの数。まあお礼なら明日言えばいいか、と閉じる。振り返れば、聖川が蒼白な顔で俯いていた。俺は肩を竦めた。

服を脱ぎ棄ててシャワーのコックを捻れば。水の満ちるように、じわじわと実感が這い上がってきた。冷たい水が強かに頭を打ち、湯に設定するのを忘れていることに気付いたが――そんなことはどうでもいいんだ。


「…く、っう…」

視界が揺れて、とても立っていられない。へなへなと座りこんだ背中を、また強かにシャワーが打つ――『近いうちに、俺は。』

「っ……!――は、はは…」

――諦める。

シャワーの音が五月蝿くて、手は止めようとコックを握ったままどうしようもなくなった。さっきまで真斗に触れていた手。その温度を、感触を、思い出そうとしてももう何も残っていなかった。全ては過ぎ去って、今は余韻を残すばかり。

「ははは…バカか、俺は……子供じゃあるまいし、ねえ…」

手に入る訳もないのに、わざわざ足掻いてみたなんて。例えば裸の王様だって、身に過ぎるものを欲しなければ、恥なんてかかなかったろう。…それともいっそ、子供みたいに。泣き叫べたら楽になるのか。

きみがすきだって。
すきで、すきで、しんじゃいそうだよって。たすけてよって。

「出来るか、そんなん…」

だからって、『結婚』なんて飛ばしすぎたなと笑った。でもそれくらい、馬鹿げてないととても言えない。あいしてるなんてまっすぐなこと、言えるくらいに綺麗じゃない。


――愛のない結婚をする。いつか。きっと遠くない未来で。