―――死にたい、と。


呟いたことのない人間が何処にいるだろう。
頭の隅にちらりとでも、過らせたことのない人間がどれほど居るだろうか。

表があれば裏があるように、生きている限り死は切り離せない。
死は苦しみであると同時に、救いでもあると言う。
『平等なのは死だけ』と言う言い古されたフレーズを、一体誰が否定出来るだろう?

どんなに幼い子供にだって死は付きまとう。『もし死ぬならこう死にたい』方法を考えたことがある。
…それを叶えられるのは、余程の幸運な者と、行動力のあるものだけだが。

しかし。

死にたいなんて口に出せるなら、それはまだ余力のある証拠。悩むということは、まだ活路を見出だそうとしていると言うこと。本当に危険なのは相談もせず、溜め込んでいる人間だと言うのは良く聞く話で、そう言う人は何かが切れてしまった時に、自分で簡単に死んでしまったりもする。


――……時には、自分で死ねない人もいる。ふと思い付いて、線路へ飛び込むのとは違って、悩みに悩んで、悩んで、それでもやっぱり生きていけないと、思ってしまう人間がいる。でも、こわい。どうしても自分はできない。だから誰か、いっそのこと――
……殺してくれやしないか?



「今晩は。早かったのね」
「…仕事ですから」
「そうね………入って」


某所。

某所と言っても、都内ではない。世界の何処か、と言う意味の某所。むしろ都内が某所の枕詞になっている現状がおかしいのだ。


散らかっててごめんなさい。と言った女の言葉に反して、室内はきちんと片付いていた。
そう言われて見てみれば、確かに椅子がちょっと斜めになっていたり、机の上のリモコンが机に平行になっていなかったりするが、まあその程度だ。神経質な人なのだろうな、と推測し、自分には関係のないことだとすぐ頭から消す。

「珈琲飲む?」
「頂きます」

女は薄く笑って頷くと、俺に机の側へ座るように促し、自分はリビングとくっついているキッチンへと入っていった。余計なものを視界に入れないために、俺は目を伏せた。


「インスタントで、ごめんなさいね」

瞼を開いて、珈琲を受け取る。どうも、と言う言葉に女は笑顔で返した。近くで見た女の顔には、笑い皺があった。それと深い隈も。

「若いのね。幾つ?」
「………25です」
「私は42。もうおばさんよね」
「…いや」
「良いのよ。気にしなくて。お話するのは迷惑?」
「大丈夫です」

ありがとうと女は笑った。名前は知らない。住所があれば事足りた。


「最近は子供の頃のことばかり思い出すの。あの頃はあの頃なりに苦しかったはずなのに、楽しいことばっかりだった気がする」
「わかります」
「後悔とかはあんまり無くて。これが私の運命なんだ。ここで、終わることになってたんだ、……とか、思えるの」
「…………」
「ごめんなさい。もういいわ」


女は俺の手の中から珈琲を奪うと、それを机の上に置いた。珈琲にはまだ湯気が立っている。まだ珈琲の温かさの残る手を、女が取った。そしてその手を、自分の首へと導いた。……細い頚だった。


「殺して」

迷いのない口調だった。




紹介制の闇サイトに、彼女から書き込みがあったのは一昨日。話はトントン拍子に進んで、書き込みから二日目の今日、彼女から最も近くに住んでいた俺によって執行される。違法の慈善事業。

彼女は薄く化粧をしていた。長い睫毛の下の目が、俺を見た……――その目は確かに生きたがっていた。生きていていいと言って欲しがっていた。俺はそれをいつものこと、と片付ける。俺に生きろと言う権利などない。

……目を伏せる。彼女が微笑んだような気がした。俺はせめても苦しまないようにと、



* * *


彼女をキャリーケースに詰めて部屋を出る。珈琲のカップも一緒に。
マンションの廊下に人影はなかった。男はエレベーターを使って、一階まで降りる。
マンションの前には、黒いバンが止まっていた。トランクにキャリーケースを放り込み、助手席に乗る。

「……珈琲の匂いがする」
運転席に座る、男のパートナーは鼻が良い。


「断るのもアレだからさ。だって最期だぜ?」
「重くならない?そう言うの絶対断るって奴もいるのに。優しいんだねえ」
「うるせえよ。さっさと出せ」
「はいはい」

バンの外の宵闇は、タールのように濁っていた。二人の乗るハイブリッド車が、音もなく闇の中を泳ぎ出す。会話はない。珈琲と女の頚の温かさが、まだ掌に残っている気がして。連れもそんな男の感情が解らないほど短くないので、わざわざ言葉を掛けはしなかった。



パートナーの家に付いたのは、それから一時間ほど後だった。女の家が近いと言っても、そこまで近いわけではなかった。
トランクを開けてキャリーケースを出し、何時ものようにある一室へと運ぶ。この頃にはもう手の違和感も消えて、トランクも中身も、彼にとってただの荷物になっていた。
パートナーはバンを駐車場に止めてからやってきた。ついでに着替えてきたらしい、執刀医のような服を着ている。男はまだスーツだと言うのに。

「じゃあ何時ものように」
「あいよ」

キャリーケースを持ち上げて、男はそれを、部屋の真ん中にある机へと上げた。机と言うよりは鉄製のベッド、もしくは流し台のようだ。キャリーケースを開くと、先程まで生きていた女が、膝を抱えるように詰められていた。その隙間には珈琲カップ。男はカップを机に置いてから、女の体を引きずり出した。
死後硬直の始まっている体を、無理矢理に仰向けに寝かせる。それから男は服を脱ぐと、その全てをごみ箱へ放り込んだ。

「僕の服適当に着ていいから」
「言われなくても」

男は全裸のまま、隣室にあるバスルームへと歩き出した。どうせこの家に男と、パートナーしかいない。男の残っている仕事は、先程殺した女の痕跡を消すことだけだ。これからはパートナーの仕事。パートナーに取っては、仕事半分趣味半分なのだろうけど。俺が殺し、パートナーが解体する。



体を念入りに洗ってから部屋に戻ると、解体はちょうど終わったところらしかった。女の体がパーツに分けて、色とりどりのタッパーに詰められている。偏執的なほど真っ白に肉の削ぎとられた骨だけが、机の上に残っていた。

「お疲れ様です」
「どうも」

男のパートナー、もとい、魚崎がマスクと帽子の隙間から、目だけで笑った。今回はどうする?と男、もとい熊田が尋ねる。

「内臓と目は売ろうか。脳と骨は焼却で。肉は僕の。OK?」

おけ、と熊田は笑った。

「じゃあ電話しとくから、お前風呂な」
「先にタッパー冷蔵庫に入れといてよ。僕は部屋洗ってから風呂」
「任せろ」

熊田はタッパーを幾つか受け取ると、部屋から少し離れたところにある台所へと歩き出した。タッパーは数があるので何回か往復しなければならないが、いつものことだ。冷蔵庫は案の定空っぽだった。調味料と水が少し。小さな冷蔵庫は、タッパーを詰め込むと一杯になった。

タッパーを冷蔵庫に詰め終え、一息吐こうかと台所の椅子に腰を下ろすと、見計らったように携帯が鳴った。画面を見るとちょうど掛けようと思っていた相手で、気が早いなと苦笑する。


<改ページ>
「もしもし?」
『終わったある?』
「……終わったよ」
『取りに行くヨ。今すぐ言って良いある?」
「いいよ。内臓と目なんだけど」
『心臓あるある?』
「あるよ」
『買った!』

言いたいことだけ言って、電話は切れた。熊田は頭を掻くと、椅子から腰を上げた。ヤカンを火にかけて、冷蔵庫の隣の戸棚からカップラーメンを出す。賞味期限が切れているのもいつものことだ。魚崎はカップラーメンが食べられないから、熊田のために買っておいてくれるのだが、仕事がない限り熊田は来ないのでそれは大抵賞味期限が切れている。
まあ、乾燥しているから大丈夫だろう。と誤魔化して湯を注いだ。


食べ終わった頃に、魚崎がやってきた。

「僕も食事にしようかな」
「俺が帰ってからにしろよ…」
「付き合う?」
「絶対無理」
「まあ強要はしないよ」

魚崎は嬉しそうに笑った。…また少し痩せたんじゃないだろうかと、熊田は思った。前よりも頬がこけたような気がする。でもこれでそのうち戻るだろうと思うと、複雑な気持ちだった。

魚崎は熊田の隣をすり抜けると、冷蔵庫を開けた。台
所のテーブルに、ミネラルウォーター、調味料、タッパーに詰められた女の肉。

「……何作るの」
「普通に焼こうかな」
「なるー……」

魚崎は拒食症だ。人が一般に食べるようなものが美味しいと思えない。食べられないこともないからなんとか生き長らえているけれど、それでも時々は栄養失調に陥るらしい。


そして、異食症でもあった。人が一般に食べるようなものでないものを、美味しいと思う。それは人によって、土であったり洗剤であったりするらしいが、魚崎に取ってそれは人間であった。



魚崎はとても美味しそうに食べる。

「……美味しいの?」
「あーん」
「要らない」

なんだ、つまらない。言葉に反して、魚崎はあまり残念でなさそうに笑った。
魚崎は何時もの拒食が嘘のように料理をぺろりと平らげると、食器をシンクの上に置いた。熊田はそれで察して席を立つ。
案の定魚崎は、じゃあ、そろそろ、とさっきの部屋へ戻っていった。一人でも大丈夫だろう、と熊田は先に奥へ向かう。


奥には火葬場があった。魚崎の家はもともと葬儀屋だったから、火葬場がある。ちなみに先程死体を解体していたのはもともと遺体を清めていた場所だ。そこを改造して使っているわけだが、あっているような間違っているような…


女の服と骨と、先程まで熊田の着ていたスーツを焼く。女のあの一対の目が、扉の向こうからこちらを見ているように熊田は思った。悪い方へ行き掛けた思考を遮るように、チャイムが鳴った。魚崎が一足先に玄関へと向かった。熊田は火葬場の、重く閉ざされた扉の向こうを思ってから、両手を服で拭って魚崎を追った。



「ニャン村さん今晩は」
「ニャン村じゃないある!猫村ある!」
「似たようなもんでしょう」
「そんなん言ったらお前フィッシュ崎になるある!」
「魚はフィッシュって鳴きませんよ」
「ギョギョッ!?」
「お前らは…アホか……」

来客は案の定猫村だった。猫村は中国人の臓器ブローカー。臓器やらなんやらをよく買い上げてくれる。

「で、どこある?」
「冷蔵庫に」
「入っていいあるか?」
「どうぞ」

魚崎が笑って促すと、猫村は部下らしい男にカートを引かせて家に上がった。魚崎の先導で冷蔵庫へ向かい、肉以外の臓器を詰める。猫村はテーブルにポンポン、と札束を放り出して、つりはいらんある、とホクホク顔で帰っていった。


「……俺も帰ろうかな」
猫村を見送って、熊田が呟いた。熊田は普段は土木工事なんかをしている。臓器売買が金になるとは言え、それだけでは生きていけないし、それを仕事にしてしまえば慈善じゃなくなる気がして。魚崎だって他に仕事がある。そっか、と魚崎は少し残念そうに言った。

「次会えるのはいつだろうね」
「誰かが死にたくなったら。……だろうなァ。縁起でもない」

熊田は溜め息を吐いた。魚崎のことは嫌いではない。が、関わりすぎると切れなくなる。
二人の関わっていることは勿論犯罪だ。魚崎が捕まったとして、自分まで一緒にぶちこまれるのは御免だ。魚崎だってそうだろう。


「……あ、服」

魚崎の家を出てから気付いた。いつも借りては、返しそびれている。熊田の部屋には魚崎の服が貯まっていく。魚崎のワードローブが作れそうだ。ただ単に忘れているだけなのだけど、返したくなく思っている自分がいるような気がしてならない。


電車を乗り継いで家に帰り、部屋の隅に魚崎の服を脱ぎ捨てる。違和感を覚えて手を見ると、また酷く汗ばんでいた。嫌な感じがしてまた風呂に入る。
風呂を出て、安い酒を舐めながら、人をしめころしたのは久しぶりだからか、と不愉快さの理由を思い当たった。

窒息死は苦しいと言う。まあ、どんな死だって苦しいことにはかわりないけれど、それでも苦しいらしい。女の、血の通ったあの頚が、まだ手の間にあるような気がした。今更になって、少しでも言葉を交わすべきでなかったと後悔する。さっさと殺せば良かった。


「…………」

視線はいつの間にか、先程脱ぎ捨てた服へ向いていた。

魚崎。俺のパートナー。拒食症で異食症。

それだけしか知らないのか、といつものように愕然とする。もっと知りたいと、会いたいと思うのに、それが最低なことだと解っている。これは人の死を望むのと同義だ。俺は快楽殺人者ではないと、思っている。
それなのに、
後味の悪い仕事をした時に限って、魚崎のことを考えている。心細いのか?……いや、きっと俺は、魚崎を…………やめよう。


断ち切るように首を振って、パソコンを立ち上げる。サイトに書き込みはなかった。あったとしても、場所が此処から離れていれば違う奴らが殺る。熊田は複雑な気持ちでパソコンの電源を落とした。
酒を放り出したままベッドに突っ伏すと、悪酔いしたのか、今日の光景がぐるぐると渦を巻いた。女の顔が魚崎になって、殺して、と囁いた。