全知全能なる神は七日間で世界を創った。
あらゆる生物を造り出し、最後に泥を捏ねて男を創った。男は動物に名前を付けた。
しかしは男は、自分に釣り合うものを見付けられなかった。
神は見かねて、男を深い眠りへ誘った。そして眠る男の肋骨を取り、その肋骨から女を創った。
我ら人類の起源。人が神の手を飛び出すまでの閉じた楽園。
切っ掛けが些細なことなのは何時だって何処だって同じ。只の一個の林檎が全ての引き金で、人は楽園から転げ落ちた。しかし転げ落ちたのは、人だけだったのだろうか。
ダーウィンの進化論。生物は自ら環境に応じて変化を遂げた。それは神の与えたもう姿を捨てたことだ。生物の全ては神を棄てたのだ。
それなのに神にすがろうなんて、烏滸がましいことじゃあないか。
【ついにこれこそ、私の骨の骨。肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。男(イシュ)から取られたものだから。】
「人が動物より優れていると言うのは、実はキリスト教的な考えなんだ。
生物学的見地から言えば、僕ら人間だって動物から劣る所もある。そもそも何が優れているかなんて、人間の尺度から測ったものだからねえ」
そう言って魚崎は、帽子とマスクの間から見える目を細めた。
机の上には男、魚崎よりは背が高いだろう。肩幅だって広い。魚崎はその男と向き合っていたが、しかし話し掛けたのはその男にではなかった。
「はあ……」
魚崎の斜め後ろ、湯気の立つカップラーメンを持った熊田が、箸をくわえたまま曖昧に頷いた。
「解体が見たいなんて、珍しい」
「いや見たいと言うより、効率が悪い気がしてさァ」
「効率?」
「と言うか。部屋の掃除って結構きついんじゃないかと」
「なるほど」
魚崎が笑って、一刀目を入れた。使っているのはメス。何処でもは買えないが、買おうと思えば買えてしまう便利な世の中。
室内に血と、カップラーメンの匂いが混じった。
…昔は食べられたんだけどなあ、と突然に魚崎が呟いた。カップラーメンに真剣に向き合っていた熊田が顔を上げる。
「食べる?」
「無理。気持ち悪いもん」
「そうかなァ」
魚崎を見たまま、カップラーメンを啜る。魚崎が自分の話をするのは珍しい。
「アイヌはさ、僕らがいる世界とは別の世界があって、その世界には人間しかいない、と考える」
「はあ」
「そしてその世界の人間が僕らの世界に来た時、一部の人間は動物の姿を取って現れる。そしてそれを僕らが殺して食べる」
「…………」
「その代わりに、アイヌの人達は動物を丁寧に埋葬する。埋葬された動物はその世界に帰り、こんな風に埋葬してもらって嬉しかった、と報告する。その好評を聞いた違う人間が僕らの世界へ現れる……と言うことだ」
「………はあ」
…魚崎の話を聞いていると、何と無くカップラーメンが美味しくなくなった。魚崎が笑顔に振り返る。嬉しそうにその手に持っているのは、
「じゃーん!スペアリブ!」
「…………」
もっと飯が不味くなったように感じた。でもまあ結局食べ終えて、熊田は箸を置いた。
「つまり俺らも立派なカニバリズムだと言うことで」
「ま、そこまでは言わないけど。共食いなんか動物じゃあなくはないことだし、大して気にすることもないってことさ」
「……言い訳にしか聞こえない」
「気にしないよ」
* * *
…もう随分と、温かい体に触れていない。最後に触れたのはいつだったろう、と魚崎は思う。
先月か、先々月か、下手したらもっと前かも。死体にばかり触れている気がするのは、きっと間違いではないと思った。
外面はいい方だと自分では思っている。自分で言うのもアレだけど、正直もてない方でもない。仕事柄人と接することも多いし。
でも僕は彼女達に手を出したことはない。同僚と飲みに行ったこともない。関わりたくないし、関われない。
僕はヒトを、ヒトだと思うことが出来ないのだ。
その温かい喉元に触れたが最後、僕はその細胞の一つまで逃すことはできないだろう……なんて言うとロマンティックかも知れないけど、つまりは花より団子。性欲が食欲に勝てないと言うことだ。
…しかし時折は、温かい肉に触れたいと言う衝動が僕を襲う。
舌を食いちぎるようなキスをとか、縦に引き裂いた腹へ肘まで腕を埋めてみたいとか、引き出した生暖かい腸で以下略とか思うけれども、其処は我慢するしかない。人間と言うのは面倒なもので、僕は動物になれたらと思う。人豚だけば全力で遠慮するけども。
死体は冷たい。手袋をしても、指先から熱を奪っていく。
最初に出会った死体は、僕の肋骨だった。
「魚崎。手が止まってる」
「……ああ、ごめん」
思い出したように、魚崎が死体に刃を入れた。熊田が溜め息を吐く。
「疲れてる?」
「いや、何でもないよ。カップラーメンで気持ち悪くなっただけで」
「……お前が食ってて良いって言ったんじゃないかよ」
熊田がさっきよりも深く、溜め息を吐いた。箸をくわえたまま、部屋を出ていく。それを視界の端で捉えながら、魚崎はスプーンを手に取った。
疲れている?……そうかも知れない。
魚崎は死体の顔を覗き込んだ。死体は当然のように青ざめた顔をしていたが、造形は悪くなかった。
左利きの魚崎は、右手で死体の左目を開かせた。色はまだそんなに濁っていない。
そして左手に持つスプーンを、眼窩を擦って、眼球の下へ入れる。柄を持つ掌に伝わる眼球の弾力。ぐるりと回して引き出すと、ぷつんと小さな音がして眼球がスプーンの上に乗った。
魚崎はそれをじっと眺めて、結局は残念そうに溶液の入った瓶へ入れる。鮮度がなあ。死にたてでもないと、なあ……
苛立ちを晴らすように、右目は乱暴に取り出した。
* * *
「おう、おつかれ」
「……どうも」
何やら今日はなんだかんだと手間取って、いつもより時間が掛かってしまった。しかも今日は解体してタッパーに詰めたら掃除もしないでそのまま。どうやら本当に疲れているらしかった。
「……と言うわけで、ごめん」
「ちょっと雑かも知れないけど、勘弁な」
「了解…」
魚崎はどうしようかとちょっと躊躇って、結局解体部屋で服を脱ぎ捨てた。そしていつも熊田がしているようにごみ箱へ入れる。
いつもなら適当に洗濯して何回か使ったりもするのだけども、今日はどうもめんどくさい。すぐに洗わないと血が膠みたいになって落ちなくなってしまうし、今はもう何もしたくない。熊田がぎょっとしていたがそれもどうでも良かった。そういや熊田の前で服を脱いだことはなかったな、とシャワーを浴びた。
* * *
僕が抱いたのは、後にも先にも妹だけだった。
妹は僕と同じ時に生まれた、俗に言う双子だった。ただちょっと僕の方が出口に近かっただけの、一卵性双生児。
僕と妹はとても良く似ていた。その頃僕がまだ幼く、わりと今も女顔であるせいだったろうけど。
いつしか僕らは、当然のように身体を重ねた。性欲と言うきたないものではなく、もっときれいな、帰巣本能のように思っていたけれど、今から思えば青臭いな、と言うようなかんじだ。
そんな馬鹿げた幻想は、唐突に終わった。妹が妊娠したのだった。蛇が林檎を食べたんだから、当然だ。僕らは二人して家から逃げ出した。
そして数ヶ月が経って、彼女は子供を産んだ。女の子だったように思う。彼女はあっけらかんと言った。
【ふたごじゃないならいらないわ。すてましょう】
彼女は子供を絞め殺した。小さな手が、苦しげにもがくのを見た。僕は彼女を止めなかった――……どうしてか?
僕は逃げ出した。彼女も、子供も捨てて逃げた。
僕は自分が可愛かったから、
また時は流れて、僕は、自分に帰る場所のあることを思い出した。
全部が全部悪夢で、家に帰ってみれば、優しい父母と可愛い妹。そんな生活があるんじゃないか?なんて思うほどに、僕は疲れ果てていた。
そして僕は一度捨てた家に帰る。どうしても捨てられなかった、鍵を使って家に入る。
ごみ箱に、子供が捨てられて腐っていた。
台所で、母が刺されて腐っていた。
火葬場で、父が消し炭になっていた。
僕の部屋で、妹が首を吊っていた。
僕はその全てを灰にした。
埃の積った部屋を掃除して、家族が平和に暮らしていた頃の状態にする。
僕の掌の中には、焼け残った妹の肋骨が一本。それはとても脆く、力を込めるとさくっと砕けた。僕はそれを、
「魚崎ぃ?」
控え目なノックの音。湯船に浸かって目を閉じていた魚崎が顔を上げると、磨りガラスのドアの向こうに誰かが立っている。
「……熊田」
「終わったぞ。大丈夫か?」
「だ…」
大丈夫、と言い掛けて思い止まる。足を伸ばして、息を吐いた。
「……疲れた。」
熊田がガラス越しに苦笑した。
「溜め込むタイプ?」
「知らない」
「そ。のぼせんなよ」
去っていこうとする熊田を、魚崎は呼び止める。
「実は僕子供いるんだ」
「………はあ?」
「どう思う?」
「……カニバリズムのサラブレッドになりそうで、心配だ」
「なるほど」
そして今度こそ熊田は去っていった。
しかしもし子供が生きていたとしたら、多分僕が異食症になっていなかったんじゃないかと思う。僕が異食症になったのは、彼女の肋骨を食べてからだった。
彼女の呪いかもしれない、と僕はロマンティックなことを思っている。