旦那が死んだのは、もう半年も前の夏である。
今は春。茂狩村にいた頃には、鬱陶しいほどに実感できていた春だった。

誰も頼んじゃいないのに、庭にも道にも草が生え放題。一番嫌いなのは運動場だった。
温められた土の匂いのする中での職員たちの除草作業、つまりは草むしり。
健康ったらありゃしなかった。もうサイアク。まあそんなことは今はどうでもいいんだけどね。


旦那が死んだ一週間後には、俺はもう村を出ていた。
茂狩村よりも閉じた、しかし開いた海辺の町に越してきていた。社会から隔絶された、しかしそれゆえにか人情に溢れたこの町。

この町には茂狩村のような春らしい春はない。ただ味気ない家並みと、海があるだけのこの町。
灰色の絵画に一点だけの青色のようだ。
俺はこの町でまた教師をしている。子供に教えて、食べて、寝て、生きて、この町で。死んだ男と暮らしている。


この町は本当に海だけは綺麗だ。俺はそんな風にこの町を思っている。

貸家から自転車を漕いで学校に向かう途中。この町はどこからでも海が見えた。マリンブルーと言うには濃い青色の海。

山の中で暮らしていた俺には、海が珍しい。海辺の町に越してくることを決めた時、内心年甲斐もなくしゃいでしまったのは自分だけの秘密だ…――と言っても聡いあの人には気付かれてしまっているかもしれないけど…、と悔しい気持ちに俺はなる。


行きは登り、帰りは下りの道を自転車を漕いで。
今は夕方。夕陽を水面に浮かべた海を横目に、俺は坂道を下っていた。はためく髪が潮風を吸って重い。

もうこの半年間、ずっと繰り返してきたことだって言うのに。家に帰る前はいつだって緊張する。
どんな風に帰ったらいいんだろう。なんて声を掛けたら自然なんだろう…とか。
そして終いにはなんだかめんどくさくなって、何時も叩き付けるようにドアを開けてしまうのだ。挨拶だってぶっきらぼう。
でもあの人は一度だって嫌な顔をしたことはなかった。
…代わりに、ろくに『ただいま』も言われたことはないんだけど!

「ただいま」

だから今日だって挨拶はなかった。冬場はこの時間にはもう暗かったが、そろそろ日も伸びてきて外は明るく、部屋に電気はついていなかった。

黄昏に染まる部屋の白銀。俺は陶酔するような気持ちになる。もちろんそんなの言わないけれど。


「ただいまって言ってるんだからさ、おかえりなさいくらいはないわけ?」

わざと吐き捨てるように言えば、やっと死人は顔を上げたのだった。
…本を持っている。こいつが読むのは、俺にはちっとも面白さの解らない難解な本ばかりで。
悔しくないと言えば、嘘になる。教師をやってる俺の方が、教養があってもいいはずなのに。
知識をひけらかそうとすれば、そうじゃないと口を出す。はいはい、馬鹿ですいませんでしたね!…あームカついてきた。



死人は難しい顔で俺を見ると、何を言うでもなく、――つ、と机の上を指で差した。
すると、机の上には見慣れない色彩が注していた、この色のない部屋に。


「…なに、貰ったの?ここの人たちホント気良いよね」

答えない。涼しい横顔に苛立ちと失望が込み上げて、誤魔化すために言葉を続けた。

「買ってきたわけじゃないよねぇ。どうしたの」

死人は部屋を出ない。だってここは棺だから――と言えば聞こえは良いが、要するにこいつはものぐさなのだ。半年経っても昔の御当主気分が抜けない――はずが。

そうだ、と旦那は頷くのである。

「買ってきた」
「はあ?」

旦那はただでさえ難しい顔を更にしかめ、閉じた本を指先で叩いた。――文句があるか。

「いや、て言うか…どういう風の吹き回し?」

意味がわからないんだけど。
長い話になりそうな気がして、俺はポケットから煙草を出した。それを見た旦那が眉をひそめたが、こればっかりは譲れない。いくら旦那の機嫌を取りたいと、今になっても俺が思っていたってね。


『村を出よう』、って。

切り出したのはどっちが先だったろうか。多分俺だろう、旦那は口が避けてもそんなことは言わないように思うから。

村を出たって、たかが次男坊の俺の行く先なんて誰も気にしやしないが。
かの大江家当主の旦那は別だ。それこそ、死にでもしない限りずっと村に縛り付けられる――あの殯山の鬼のみたいに。

大江家当主の大江幹孝はあの夏に死んだ。

ならば今目の前にいるこれは?――…何なんだろう?俺に取って価値のないはずのこれは。


「昼過ぎに、テレビを少しだけ見た」
「そりゃ珍しい」
「お前が電源を切っていかなかった」
「あら。申し訳ございません」
「…………。果物が」
「はい?」
「煙草の害を」
「へえ?」


…旦那は、話疲れたように息を吐いた。それから――察しろとばかりに睨まれても、ねえ――…わかるもんですか。

「臭い」
「慣れてくださいよ」
「さっさと止めろ」
「それはちょっと…」

今朝いっぱいだったテーブルの上の灰皿は、今はもう空っぽになっていた。憮然とした旦那の正面。きっと捨てておいてくれたんだろう。俺は薄く張られた水にちびた煙草を浮かべる…
火の消えた小さな音。少し愉快だった。二本目を取ろうとした手首に、何かが触れた。それは白い――

「やめろ」
「……そんなに嫌なんですか」
「…………」
「痛いんですけど」
「五月蝿い」

裏腹に手は離れて。吸えばいいのに、やれやれと俺は煙草を仕舞った。口寂しくて手を出したのは季節の果物―――俺もあんたも、似合わなすぎる。


「旦那は要らないんで?」
「要らん」
「好きだから買ってきたんじゃ?」
「違う」
「じゃあ何で」
「…………」
「言ってくれなきゃ、わかんないんですがねぇ…」

柑橘類の甘い薫りが、煙草のフレーバーを掻き消して漂った。果実はまだ青いのか少し苦かった。

「寡黙なのが、格好良いと思ってるんですか?」って文句を垂れて見せながら、本当は知ってるんだけど。

果物が煙草の害に良いらしいのも、あんたが煙草を嫌いなもうひとつの理由も。

―――だけど、知ってるとも、嬉しいとも言ってやらないよ。
だって素直なあんたなんか気持ち悪いからね!あんたも言わないんだ、おあいこでしょうよ。