予定を自分の気紛れでなく乱されて、王様は大層機嫌が悪かった。
本当なら今頃はもう日本だったのに。と王様は何度も何度も眉を寄せた。

久々の帰郷に胸を踊らせていたのは、何も王様だけじゃない。王様の予定ってのは大抵の場合俺も共有するもので、つまり俺だって予定を乱されている。こっちが喚くのを我慢してるってのにさあ。五百歳も歳上のくせして王様は辛抱がきかない。

「…だからもうそれ、聞き飽きたっつーの」

なんて口に出したくもなる、俺の気持ちも考えてほしいもんだ。良い加減落ち着いてくれよ。何て気持ちを込めて声を掛けたけども、王様の機嫌が治ることはなかった。いやまあ今更、そんな期待もしてなかったけど。

「仁介。貴様とて不満だろうよ」
「いやそれはそうだけどさあ、しょうがないじゃん」
「しょうがない、とは何だ。貴様そんなことでいいのか?不満を呑み込んでは人は成長できぬ。俺を倒そうと必死になった、あの頃のお前はどこに言ったのだ。嘆かわしい」
「最もらしいことおっしゃいますけどね、じゃあお前何とかできんのかよ」
「おい貴様。俺のことを馬鹿にしているのか。これぐらいの苦難、俺にとっては屁でもないわ。ただしまあ、ここは引くのも一興だろうと思ってな。ボロ宿に止まるのも中々新鮮で良いと思った。だから今回は何もせぬ」
「…ああそうですか。ゴタゴタ抜かしてらっしゃいますけど、つまりアンタも何もできな………………痛い!!!痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!」
「ふん」

………腹と背中がくっ付くかと思った…………。俺が口を閉ざしたのに満足したのか、王様は楽しそうに息を吐いて俺の腹の上から退いていった。

今、俺たちは<とある>街のボロ宿にいた。クタクタの身体にはベッドは酷く魅惑的で、部屋に入るなりベッドに仰向けに倒れこんだところでバルドの文句が始まった。

寝転がったまま、視線だけを上げると、バルドは視線を絡めてにやりと笑った。……また何か変なこと考えてないといいけど。王様の考えることは、もう何十年連れ添っていても予想の上を嘲笑うように飛び越える。


「…にしても、ついてないよな。台風とか」

バルドが少し落ち着いたらしいから、俺の方もやっと不満を口に出すことができた。

「ああ。まるで狙い澄ましたようなタイミングだな。昨日まではあんなに晴れ渡っていたと言うのに」
「まあ天気予報なんかここ何年も見てなかったせいもあるだろうけどな……ついてねえや」
「全くだ」

不満たらたらに呟いて、バルドはその柳眉をキツく顰めた。
本当なら俺たちは、今夜出発の飛行機で日本へ飛び立っているはずだった。昨日まで宿泊していた高級ホテルを出たのが夕方。軽く夕食を済ませて空港へと行き、チケットを突き返されたのがほんの数時間前だった。

日本列島に台風が接近していて危険なため、本日の飛行は中止。
空港のロビーは同じようにチケットが紙くずに変わった人々で溢れかえっていた。代わりの飛行機が飛ぶのは明日の昼らしい。………台風がうまく去ってくれれば。

ともすれば機長を脅してでも飛行機に乗りたがるバルドを宥めすかして、このボロ宿に腰を押し付けたのがついさっき。何やら大口客が来ているとかで、昨日まで宿泊していた高級ホテルは貸し切り状態。そこそこのホテルは同じように飛行機を延期された人々に先を越されて、やっと入れたのがここだった。

まあここもそこそこの体裁は保ってはいるけど、バルドがいるとまるで豚舎のようにみずぼらしい。バルドが美しすぎるせい、と言われればその通りで全く相違ない。その証拠に、俺とこのホテルだとそこそこ釣り合うはずだ。

…何十年も側にいるのに、その美しさの恩恵が全く与えられないのは何故だ。ジギスムントとロザリンドと俺の何が違うって言うんだ!?

「お前がいると、まるでここはたぬき小屋のようだなァ」
「ああ俺も今同じこと思って………………ねえよ!!!!!何がたぬき小屋だ!!!!!!!!」
「そうだな。たぬきはベッドでは寝ん。床で寝ろ」
「ちょっと何言ってるかわかんないんですけど?????」
「ベッドが一台しかないではないか。俺は高貴な人間ゆえ、床では寝られぬ。下賤な貴様が寝るが良い」
「てめえ言わせておけば………俺がホテル探して電話かけまくってる間てめえ何してたよ!!!!!ぶつぶつ不満言ってただけじゃねえか!!!!!」
「当たり前だ。何故俺がそのようなことせねばならんのだ。王の世話をするのは臣下の喜びだろう」
「誰が臣下だ」
「ああ、たぬきだったか?」
「うるせエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!!!!!!!!」

今更何も言えないと言えばそうなんだけど、昔からちょくちょくたぬき呼ばわりされるのは何なんだ一体。そんなにわかりやすくたぬき面してるのか?別に目の周り黒くないけど。

思わず頬を押さえてむにむにといじっていると、上から笑い声が降ってきた。…やっと機嫌が治ったのか?バルドは楽しげに喉を鳴らしながら、ベッドの縁へ腰を下ろした。安物のベッドがぎしりと音を立てて、壊れるんじゃないかと不安を覚える。
……しょうがねえなあもう。俺もこいつにはたいそう弱い。惚れた弱味、という言葉が頭を過った。

「わかったわかった退きます退きますよ!せめて布団一枚寄越せよな」
「まあ待て」
「退くっつってんだろうが暴君が。そんな言われなくても待つから待て………って、はい???」
「気が変わった。ここで寝て良いぞ」
「は、………は?」
「うむ」
「じゃあお前が、床?」
「そんな訳ないだろう。俺が床で寝られるわけがあるか?このベッドで寝られるかも怪しいわ」
「つまり……一緒のベッドで、寝る?」
「うむ。狭いだろうが、我慢してやろう。王の気紛れに感謝するがいい」
「は、はあ…………」

こっちは床で寝ることを、もう覚悟してたって言うのに。どういう風の吹き回し?
戸惑う俺の横に、バルドはごろりと寝転んだ。日焼けしたシーツの上に、バルドの髪が拡がってまるで月光みたいに輝いた。本当の月は、雨に降り込められて見えないって言うのに。ぼんやりと見つめていると、バルドは寝返りを打って俺の方へ身体を向けた。

「小さいベッドだな。足が伸ばせん」
「……アンタの足が長すぎるんだよ。ベッドは普通だ」
「ほう。確かにお前はどうということなさそうだな」
「うるせえよ。ドイツ人と純日本人を一緒にすんな」
「負け惜しみか?まあお前はそのぐらいのサイズでちょうど良い」
「俺としては、もうちょっと欲しかったんだけどなあ……」
「俺が良いと言っているのだぞ?何も恥ずべきことなどない。それぐらいが一番………」
「一番…………?」
「持ち運びやすい」
「俺は荷物か!!!!!」

もしかして、万が一、とち狂ってバルドが、抱きしめやすいとか何だとか、そんなことを言ってくれるなんて期待した俺が馬鹿だった……俺は内心深々と溜め息を吐いた。ちょっとドキドキしたのをどうか返してほしい!

「…おやすみ」

ただでさえ仕事とかホテル探しとかで疲れてるって言うのに。ツッコミで疲れされられてちゃキリない。バルドはまだ眠くなさそうだが、こっちは先に寝させてもらうことにしよう。

俺は起き上がってベッド脇のライトを消すと、布団へと潜り込んだ。疲れのせいで、すぐに睡魔は訪れ、俺はぐいぐいと眠りの中へ引きずりこまれて行く。あともう少しで意識を手放せる。それを求めてぎゅっと目を瞑った瞬間だった。

「のわぁ!!!!!??????」

突然の衝撃に、眠気も何も吹っ飛んでしまう。何時の間にか布団はひっぺがされていて、俺はただベッドに寝転がっている状態だった。
一体なんだ今のは!?何か衝撃があったのは覚えているが、それが何だったかまではっきりとわからない。薄暗い部屋の中戸惑ってじっとしていると、第二の衝撃が襲って俺はまた飛び上がった。今度は、何が起こっているかわかる。慌てて顔を向けると、真正面でバルドが意地の悪い笑みを浮かべていた。

「ちょ、お前、俺はね、…るって………」
「生憎だが、俺は眠くないのでな。付き合え」
「疲れてんだよ俺は……!!お前が疲れてないのは知ってるけどさ!」
「知っているなら尚更付き合わんか。この娯楽もないボロ宿、閨ごとぐらいしかすることもないだろう?」
「嫌だっつーの…!」
「嫌だと言ったところで、俺がやめないことぐらい知っているはずだが」
「くっそ、ゲス野郎……」
「くくく。もっと可愛いことが言えんのか」

バルドはにやりと唇を愉悦の形に捻じ曲げたまま、俺のそれを掴む手をまたゆるゆると動かした。そんな変わったことをしている風でもないのに、自分でするのとこれほど隔たりがあるのは何故なんだろう。否が応でも息が上がって、俺は身体を捻ってまくらに顔を埋めた。

「おい仁介。お前こんなに弱かったか?」

バルドは何が、とは言わなかったがこの場合ナニしかないだろう。

「……疲れてる時はやばいっての、知らねえのかよ」
「ほう。生憎そう疲れることもないならわからんな。お前と殺し合ったのが最後だ」
「楽ばっかしやがってこの野郎……苦労は買ってでもしろってことわざ知らねえよかよ!」
「知っているぞ。その前に『若い時の』と言う言葉がつくことまでな。おい墓穴を掘ったぞ。どうする」
「俺だってもう若くねえよ」
「何、お前など鬼としてはまだ毛も生え揃わぬ子供も同然だ。それも俺とは精子レベルで隔たりがあるぞ?人間としてはそこそこの歳だろうがな。ところで仁介」
「何だよ」
「俺は、手が疲れた」
「…………は?」

何だって?予想の上を飛び越えて行った言葉に、俺は思わず枕から顔を上げた。

「後は自分でするがいい」

至極当然と言う顔で、バルドは俺のそれから手を離した。……おい!?
恐る恐る視線を下ろすと、暗がりの中。ズボンから引きずり出された俺の息子さんがしっかりと頭をもたげている。……おいおい。

放っといたら収まらねえかな……俺は下ろされたズボンを引き上げようとした。すると途端にバルドが俺の手の上に自分の手を重ねてくる。
見上げるとバルドは涼しい顔だけど、重ねられているだけの手には実はものすごい力がかかっていた。俺じゃなかったら折れるぐらいじゃすんでないだろう。
バルドが言い出したら聞かないのは今更だけど、あーもう……俺は大袈裟に溜め息を吐いた。バルドの眉が楽しそうに釣り上がる。あー、もう。やりますともよ!

バルドの手が離れて行って、俺は渋々自分のそれに手を伸ばした。恐る恐る手で包み込むようにすると、ダイレクトに刺激が伝わってきて息が詰まった。

「…ッ、………」

ええい、ままよ。どうせならさっさと終わらせて寝てしまおうと思うのに、まるで生まれて初めてオナるみたいに上手くできなくて俺は戸惑った。原因はまあ、間違いなく。頭上で含み笑いを浮かべる鬼のせいだ。

「……見てんじゃねえよ」

怒気を込めて睨みつけると、鬼は含み笑いでなく破顔した。

「見てないで手伝え、と?」
「言ってねえよ!」
「ははは。どうしてもというなら手伝ってやらんでもないが」
「言ってねえって」
「……仁介」

バルドは俺の名を呼んで、浮かべていた笑みを不意に引っ込めた。気まぐれな王様のことだ。何か機嫌を損ねたろうかと俺はギクっとする。王様の機嫌を損ねたら、後が大変なのは今更だ。面倒ってのもあるし針のムシロでしんどいのもあるけど、それ以上に悲しいから機嫌を損ねたくはなかった。

「バルド、何か……」
「仁介」

言い訳を口にする前に、遮られてまたぎくっとした。さっきまで見れていたバルドの顔が見れなくなる。それで視線を落せばそこには俺のそれがあるわけで。おいおい。空気読めよな!!!

つい自分で自分のそれに突っ込みを入れたところで、バルドがくっと喉を鳴らした。冷たい指が、俺の髪に慰撫するように触れる。
俺にそんなことをするのは、今やバルドを除いて誰もいない。

「仁介。お前は面白いな。何十年と連れ添ってもまだ飽きん」
「…………」
「おい、嬉しそうな顔をせんか。褒めているのだぞ。俺が。この俺が」
「お前なぁ………」
「何だ」
「いや何もねえけど」
「ん?」

バルドはにやにや笑いながら、俺の頬を掌でぴたぴた叩いた。手の甲でそれを払いのけると、王様はどこか嬉しそうに笑う。いつもの王様なら気を害してもおかしくないのに、ほんと気まぐれなことで。

何十年も一緒にいたらそりゃ、喧嘩したり価値観の違いで争ったりもする。自分でも最悪だなって思いながら、何でこいつなんか助けたんだろうって思うこともあった。空白の五百年ってのはやっぱり遠くて、ふがいなさに枕を濡らしたこともあった。…けど。

救ってくれたのはいつもこの、悪徳とも言える傲慢さだった。途方もないケタの違いを見せつけてくれる。その度に俺は呆れと追いつけない寂しさを感じながら、同時にバルドに尊敬の気持ちを抱き直すんだ。愛とかそんな気持ちだけじゃなくて、尊敬もしているからこそ、隣に寄り添ってずっと居られる。ずっと側に居たいと思えるんだな、…って。絶対言ってやらないけど!


「…バルド」
「何だ?」
「……バルド」

――例えば。

数十カラットの宝石。繊細なガラス細工。巨匠が異才を尽くした絵画。そんなものに触れる時、人はものすごく緊張するだろう。
指先は震え、呼吸は乱れ、目は霞む。俺は半ば以上そんな気持ちを抱きながら、バルドへとそっと手を伸ばした。
本当なら見ることも触れることも許されない珠玉。神様の気紛れとしか思えない奇跡で、それは俺の手の中に転がり込んできた。
王はライオンのように寝転んで、髪に触れる俺の手にも、されるがままに笑っている。やがてその手を頬に触れさせても、バルドは拒むことはなかった。白磁のような滑らかさだ。

何十年と一緒にいるんだから、もういい加減わかってもいいだろうのに。俺は時々言葉が欲しくてたまらなくなる。こういう時だけは王は寛容だ。
「ああ、愛しているとも」
頬に触れる手ごと引き寄せて、王は頼もしい言葉をくれた。


「…そう言えば」
「何だ?」
「何でいきなり、日本に帰ろうなんていい出したんだ?」
「ふはは」
「えっ。何それ。怖い………」
「今日は何日だ。言ってみろ」
「えっ。え?覚えてない………っていうかお前に日付の概念なんてあっ…………痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!」
「…………。今日は盆だぞ」
「――あ」
「俺には参る墓などないがな」
「ああ………」

そういえばもう何年、何十年墓参りなんてしてなかっただろうか。忙しさにかまけて、すっかり思考の外に追いやっていた。………親不孝にもほどがある。バルドなんて、親と呼べる親もいないっていうのに。
日ごろ親の話なんてしない俺を、バルドはどんなふうに思っていたんだろうか。多分それは、あまり良い気分じゃない。

「……ごめん」
「謝るなら、俺にではなくお前の両親にであろうがな。それに俺としては、もっと他の言葉が欲しい」
「……『ありがとう』?」
「うむ。容易く感謝を口にできるのは、お前の美徳だな。そこが不安でもあるが。だから俺のような下衆に付け込まれる」
「…今は別に下衆ってわけでもないだろ」
「ほう?俺に今ここで頭から齧られても、お前は同じことを言えるだろうかな?」
「――…しない。お前は。そんなことしないだろ」
「…………。全くお前と言うやつは…相変わらずの大馬鹿者だな」

言葉の厳しさに反して、バルドの声色はそれよりずっと優しかった。呆れたような響きも持っている。
バルドは時々俺が言葉が欲しくてたまらなくなるのと一緒で、時々は俺を言葉で試したくなるらしい。此度の解答はお気に召したろうか?そうとも違うとも言ってはくれないが。

「――そうだな。墓参りには俺も付き合ってやろう」
「えっ…でも」
「外と言うのも一興だろうしなァ。興味があるというわけでもないが?」
「…は?」
「だから俺も付き合ってやろう」
「はあ????何の話です???」
「先だっては続きでもするか。おい仁介。尻を出せ」
「えっ???えっ????ちょ…えっ」
「何。どこぞの飛行機と違って、飛ばぬことはないから安心するがいい」

とかなんとか言ってバルドは俺にキスを一つ。
いやいや。何年付き合ってると思ってんだそう簡単にはそんなんで誤魔化されねえからな!?外ってなんだよ!!!いや察しはつくけどな!!??

「ヒントは、墓前だな」
「それもう答えじゃねえかおい馬鹿やめろ!!!」
「ふはは。明日は晴れるといいなァ?」

――銀の、災厄。俺は久しぶりに、その言葉の言い得て妙をしみじみと噛み締めた。なんてこったい。