月もない闇夜。さながらコールタールのような深い闇は、一寸先も見通させない。
全ての存在を否応なしに喰らい尽くし、そして自らの中に平等に、取り込んでしまうような闇。
そんな、闇の中。ぽつんと、二対。
闇の中浮かび上がる光があった。
ビー玉大の、小さな光。そんな頼りない大きさにも関わらず、ビー玉は時々ふっと消えながら、しかし闇にも溶けずずっとそこにある。
何もかもを覆い隠す闇を、掻き消して発光する光は異形。血よりも尚鮮やかで、血よりも尚禍々しい――……鬼の虹彩。
「……だったら、俺はどうすれば良かった?」
その邪眼に無感動な光を乗せ、独り言のように呟いたのはかつて人間であった男、久藤鴇也だ。
その言葉を掛けられた、今も人間である男、五百旗頭七里は無感動に瞬きした――その魔眼がふっと消えて、また現れる。
「お前ならどうしたんだ、七里。」
さほど興味もなさそうに鴇也が言った。
七里は答えない。元より鴇也と話す言葉など持ち合わせていないと思っていたが、異形と化したなら尚更だ。声を聞いただけで、背筋を這い上がる嫌悪感。
「答えろよ」
瞬き一つせずに鴇也が言った。完全なる異形と化した鴇也には、瞳を潤す行為などさほど必要なものではないのかもしれない――
会話は先程からずっと、堂々巡りを続けていた。
同じ質問を繰り返す鴇也と、答えない七里。ただ無為に時間だけが流れていく。
「お前ならどうした?」
鴇也は尚訊いた。邪眼が濡れたように光る――……
「お前なら彼奴に、何をしてやれた?」
その声は無感動で、ただ自分自身の回顧の一種として七里に向けているようにしか聞こえないが。
伊達に長い訳じゃない、七里には鴇也が真剣に、意見を求めていることが判った。
…だからと言って、答える七里ではない。だからと言って、鴇也のために口を開いたりするのは嫌だった。奴が人間であった時から、奴を手に掛けられなかったのは、一重に仁介が鴇也を慕うから、…それだけだ。
「あれが最善だっただろ?俺は最高の選択をしたんだよな、七里?」
――迷っていなければ、そんな質問はしない。
七里は鴇也を睨み据えた。見つめ返す瞳は、無感動、と言うより、呆けているようだ。その瞳にまた、殺意が湧いた。
仁介と鴇也が、バルドゥインの元へ下ったあの日。
七里は自分が憎くて憎くてしょうがなかった。何のためにこれまで、こんな嫌な職業を続けてきたのかと悔しくてしょうがなかった。
それからは修行に明け暮れた。幾ら鍛えても幾ら鬼を殺しても、バルドゥインまでは遠い。銀の災厄にはほど遠い自分の力量。
人にとって、時間の流れは残酷だ。やっと満足できるだけの力を手に入れたと思った頃にはもう、数年の月日が流れていた。
愕然とした。今さらこんな力を手に入れたとして、二人は一体どうなっているのか?もう、バルドゥインに骨の髄までしゃぶり尽くされて、名も無き屍と化しているんじゃないか――……?
それから、鬱々と過ごした数ヶ月。
力を手に入れてすぐに、城に向かえば何か変わっていたのかもしれなかったが、できなかった。
勿論、バルドゥインから仁介と、…久藤兄を助け出すことは俺の悲願だ。その決意には少しの揺るぎもない。それはこの数年間が保証している――……が。
…怖かった。仁介を喪う苦痛にもう一度は、俺は堪えられないと思ったのだ。
そんな、ある日。
噂を聞いた。九十九山の鬼の話。銀の災厄に仕える、金の鬼の話を。
鴇也がジギスムントを仕留め損ねていたのだろうかと初めは思った。だが、そんな訳はない。ジギスムントが生きているなら、奴はロザリンドの仇を討ちに来ているだろう。
鬼は、金の髪を持ち、血よりも赤い目に黒衣の男だと言う。
背は高く、相貌は端正。短刀を舞うように操り、口が達者で、神道に精通し、そして、何より――
久藤鴇也その人だったと、
「七里」
「気安く呼ぶな、殺人鬼風情が」
面食らったように鬼が瞬きした。七里は瞬き一つせず鴇也を睨めつけたまま、剣を鞘から抜いて無造作にぶら下げる。
「俺を殺すのか?」
「そうだ」
鴇也は大袈裟に感じるくらい狼狽えた。反して、七里の声色には一片の迷いもない。
「どうして」
「解らないのか?…解りたくないのか?」
鴇也は答えない。邪眼が落ち着きなく虚空を彷徨った。七里はその魔眼に、明らかに軽蔑した色を浮かべる…
「お前が殺人鬼だからだ、久藤兄」
いや、と七里は首を振った。
「鬼と呼ぶのも、烏滸がましい。お前が外道だからだ」
やはり久藤の血だな、と七里はうすら寒い笑みを浮かべた。
「かつて人間で、鬼を超伏する力を持っていたお前が、今は人を喰らう立場か――……比良坂の次は、バルドゥインに尻尾を振ったか?卑怯者の血は、幾ら世代を重ねようと薄れないか。」
七里は大股に一歩踏み込むと、銃を鴇也の邪眼の間、眉間に向けて真っ直ぐ構えた。
ついに、こいつを殺せる……黒い歓喜に臓腑が焼ける。
「生まれを誤ったこと、生き方を誤ったこと、全てを悔やんで――……
こ こ で 死 ね 」
鬼の血を持つ七里でさえ、目視出来ないほどの速さで射出された弾丸。まして、呆然としていた鴇也なら尚更だろう。
通常に販売されている銃よりも尚早く、重く、苦痛を与える――……奴等を殺めることに特化されたそれ。
瞬きほどの間に弾丸が鴇也の頭蓋をぐちゃぐちゃに砕いてしまうことを確信して疑わなかった七里は、……――しかし愕然とする。
鴇也の頭蓋を砕くはずの弾丸は、確かに鴇也の元にあった。弾道は七里の狙い済ました弾道を少しも逸れることなく、鴇也の元へ届いている。…が。
「……だったら、どうしたら良かった?」
鴇也が地を這うような声で呟いた。その手からぽとりと――血では、ない。七里は驚愕に瞬きも出来なかった。鴇也の掌から地面に投げ出されたのは、…弾丸だった。
七里が放った数と同じだけの弾丸が、鴇也の足元にばらまかれる。――……掴んだと言うのか、全てを。
鴇也はもう人を遥かに凌駕していた。…鬼と称するのも、烏滸がましい。鬼をも遥かに越えた別の何かを、七里は今見ている。
「見棄てれば良かったのか?……できるか。そんなこと」
ここに来て鴇也は初めて、声色に感情を滲ませた。滲んだのは、憎悪。ただの人間なら、その一声で発狂してしまうほどの憎悪を、鴇也は発する。
「お前ならどうしたんだよ、言ってみろよ。泣き虫七里ちゃんならどうしたァ〜?俺があン時、お前に引けって言わなかったらどうしたんだよ。
バルドに挑み掛かって犬死にか?仁介見棄てて逃げて、怖がってピーピー泣いて、終わりかァ?
仁介は俺の全てだった。仁介がいねえ世界なんで俺に取って地獄より煉獄よりもっとひでえ、くっそみてえな掃き溜めだ。お前そんなとこで、生きていけんのか?のうのうと飯を食って、のうのうと眠って、セックスして……出来んのか、てめえ。ああ!!??」
発された怒気の余りの激しさに、本能的に竦む足を七里は自嘲した。気持ちを落ち着けるように深く息を吐き、射殺さんばかりに睨めつけて来る鴇也を無感動な目で見つめ返した。
内側から切り裂かれるような視線。七里は薄く笑った。
「俺だって、そうしたろうさ。俺の命なんか、仁介の為ならどうなったって構わない。俺だってお前と同じくらい――……彼奴にイカれてる。が。」
七里は一度下げていた銃を、鴇也の眉間へ向けて抱え直した。
「何を、迷っている?」
「……あ?」
「後悔しているのか?」
何を、と鴇也がはちきれんばかりに怒気を孕ませて問う。しかし七里はその口元が緊張するように強ばったのを見逃さなかった。
「人を捨てたことを悔やんでいるのか?自分の中の【人】は、仁介よりも重かったか?
一時の感情に突き動かされたと思って、後悔しているんだろう。だからお前は、」
「違う」
「違わないな。お前が愛していたのは、仁介じゃない。哀れな弟を助ける兄――大した美談だ。そんな自分に酔っていただけだろう。だからお前は、こんな時になって――……くそ」
がしゃん。
七里の手の中から銃が滑り落ちる。七里は何かを振り払うように大きく首を振ると、剣を胸の前で構えた。これまで何人もの人外を屠ってきた剣が、血を求めてぎらりと光る。しかし恐ろしいのは、それではない。恐ろしいのは剣より、それを操る七里の方……七里は笑った。鬼ですら尻尾を巻いて逃げ出すような、凄絶な笑みを浮かべた。
「だから俺はお前のことが嫌いなんだ―――………仁介は返してもらうぞ」
重い重い、全てを溶かし込む闇よりも重い、沈黙。
鴇也も七里も動かなかった。
鴇也は地面を見つめて、七里は俯いた鴇也の頭を睨めつけて。
「……は」
「…くく。く、…ふ」
「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっひゃはははははははははははははははわかった!!わかったぜ七里!!そう言うことかよ!!!!!!」
沈黙はその重さに比例せず、暴力的なほどあっさりと破られた。
ゆっくりと上げられた顔に、浮かんだ感情は狂喜。どうしようもなく箍の外れた顔だった。狂気に魅入られた瞳が、七里を見据える。鴇也はにんまり笑った。
「七里ちゃん、お前ホンット〜〜〜に、かわいそォだなァ?」
そう言って鴇也はまた、腹を抱えて笑う。嘲るような瞳がじろじろと七里を見た。
「……何が可笑しい」
「わかんねえの?なあ、かわいそォな七里ちゃん……ほんとはわかってるんだろ?」
鴇也は笑いながら、七里へと足を踏み出した。暗闇の中を、蛍のようにゆらゆらと赤い光が近付いてくる。七里は動かなかった。…動けなかった。
「……なァ、七里」
冷たい指先が、七里の顎を挟んだ。
「お前さァ……羨ましいんだろ?」
ふっと、頬に息が吹き掛けられる。人間の血の、生臭い香り。
「俺が手に入れた、人を好きなだけ殺せる権限。それと……仁介。羨ましくてたまらないんだろ?
お前の大好きな仁介さァ……ごめんね。ホントに壊れちゃったよ。顔も声も記憶も、全部仁介なのに、ぜんっぜん、仁介じゃなくなっちゃったんだァ……なァ、どうしたらいい?なァ、お坊ちゃん。馬鹿な俺に教えてくれよォ……?」
鴇也はにやついた口元を崩さないまま言う。しかし、七里は気付いてしまった。鴇也の狂喜に満ち溢れた瞳の中に、浮かんだ一欠片のもの。それは、絶望だった。
「彼奴さァ、俺のこと、愛してるって言うんだよ。俺がいれば誰もいらねェって。羨ましいだろォ…羨ましくてたまんねェだろ?そんだけでおっ勃っちまうくらいたまんねェよな?なァ?俺、最高に幸せだろ?なァ……七里ィ」
鴇也の指がゆっくりと、七里の顎から離れた。そのまま後ろに引いた鴇也は、すっと懐に手を入れた。取り出されたのは由緒ありげな短刀。久藤のものだろうか、と七里は推測する。しかしそれは神道に疎い七里にも判るほど――……穢れきっていた。
「七里、ごめんなァ」
鴇也は申し訳なさそうに笑った。短刀を引き抜くさらりと言う音が、嫌に大きく聞こえた。
七里を真っ直ぐ見詰める瞳は、しかし焦点がもう定まっていなかった。
「王の命令なんだ……だからさァ、七里。王と、そいから俺と、…仁介のために――……死んでくれや」
……どうしたら、良かったのだろう。
あの時仁介を行かせなければ?あの時仁介を救わなければ?あるいは…九十九山の惨事に目を背けていたなら……?
いや。
今はそんな問いは無意味だ。
例え選択が間違っていたとしても、時間を巻き戻すことは出来ないのだから――……後悔など、ただの徒労。
今はただ、殺し合う二人があるだけだった。
一人は帰りを待つ愛しい人を、一人は囚われた愛しい人を救い出すことを願って…