その美しさは閉ざされていた。それは正にガラスケェスの宝石のように、穢されざる乙女のように、フリーズドフラワーのように渾然とした美しさを湛えていた。
その美しさは、脆い。だからこそ美しいんだろう。それはまるで蜻蛉。はたまた薄氷。そして不知火のように静かに燃えていた。崩れ落ちる前の儚さだ。
枯れた花のように脆いんだろう、お前なんて。
*曜日は早く帰ってはいけない日だ。
俺はいつしか、一人で時間を潰す方法を覚えていた――屋上でサックスを吹いたり。図書室で本を読んだり。あてもなく校内を歩き回ったり――……女生徒と戯れたり他の奴の部屋を訪れたこともあったが、どうも気が乗らずやめてしまった。交わす言葉の一つ一つに、自分の至らなさを思わされるのだ。
*曜日には、真斗が部屋で吐いている。*曜日はAクラスの方が早く終わる。
たまたま授業が早く終わったあの日のこと。ドアノブを握ったまま部屋の前で立ち尽くした。初めは何だかわからなかった、わかった瞬間戦慄した。感情が爆発した。
怒りに視界が真っ赤になってドアを突き破りそうにも、哀しみに崩れ落ちそうでも、同情で嘲笑いそうでも、同族嫌悪に吐きそうでもあった。
結局くるりと背を向けて逃げ出して、夜中に帰れば。俺の知っている真斗だった。
和解はつい最近。でも誰よりも知っているつもり。でもしらなかったわ、こんなこと。
その晩初めてキスした。吐瀉物の味はしなかった。真斗は驚いたようだったが、不思議と拒みはしなかった。そんな自分に驚いてもいるようだった。
また、俺も驚いていた。ついこの前までいがみ合っていて、男同士で、しかも真斗で。
どん底まで転げ落ちた後、眠る真斗を眺めて俺は考えた。真斗に取っても俺に取っても、それでもまだ下はあるだろう。だからこうして、こんな狂ったことになっても平静で居られる。
真斗に取ってそれは音楽だ。心の支えで、心臓を貫く杭だ。音楽は真斗の全てだ。音楽のために真斗は家を捨てたそうだ。今は険しい音楽の道の途中。片道切符を握り締めている……――俺にはまだ帰るところがある。例え俺が音楽を放り出したとしても、兄貴は軽蔑しはしても許してくれるだろう。真斗には逃げ場がない。真斗の本当の地獄は音楽を失うことだ。
じゃあ、俺に取ってのそれは、……なんだろう。俺もまた音楽なのか?
真斗ほど悩むこともできない俺が、まだ逃げ場もあるというのに、本当に音楽を愛しているなんて――…言えないように思う。
それから俺は、密かに吐いていた真斗を思ってちょっと泣いた。俺の前でも泣けないし、俺の前でも吐けないのね。
…俺といる時でも、気は休まらないのね。
翌日学校で擦れ違った真斗は、いつもと何も変わらなかった。吐いていたことも昨日俺との間にあったことも全く匂わせない。
それにひたすら動揺しているのは俺の方だった。表情は凍り付き、言葉は詰まり、指先は揺れる。
――和解してから、真斗は少しずつわらうようになった。
その日はそれがとても痛かった。
【ストレスの解消方法について】
『ゲームするとか?』
『本を読みます。』
『かわいいものに癒されます』
『寝る!』
「疲れてるのか」
「………ぇ」
「そんなことを訊くと言うことは」
「…………」
思いがけない返しに呆気に取られていたが、やがて苦さが込み上げてきた。「眠れてはいるようだけど」と真斗は眉を下げた。言葉は続々と素通りする。
『心配』
『俺で良ければ相談に』
『…力になれないかもしれないけど』
『頼って』
『何かできることがあれば』
『遠慮するな』
――俺の言いたかったことを、どうしてそんな簡単に言ってしまうの。お前が言っていいことじゃないよ―――……気持ち悪い。
「………ぁ、あっ?」
「レン?」
「――っ」
ふと何か、胃の締め付けられるような感覚があって。
気が付いたら膝を付いていた。
「レン?」
「――ぁ゛、…く」
何か見えない手に、体の中を撫でられるようだった。その力は無慈悲に俺の中身を蹂躙して。
こぽっと。泡立つような音で、妙にさばさばした液体が付いた膝の上に落ちた。遅れてすえた匂いが鼻を突く。一度流れてからは胃から絞り出されるように。
「――ぅあ、ぐ、…ぇっ。ッ……はあッ、がッあ、げ……―ッふ」
慌てて手で押さえても、押し戻すことはできない。胃は握りしめられたようにひくひくと痛みを伴い痙攣する。吐瀉物で、膝が、手が、床が、髪が汚れて、そこにまた涙を溢した。
昼に食ったハムサンドと再会。ちょっと笑った。
喉が痛い。今日はもう歌えない。それどころかもう、愛なんて歌えそうにないから、
「……真斗」
今この時に、殺してくれないか。
――見上げれば、真斗は凍り付いた顔で口を押さえていた。
かと思うと彼は踵を返した。恐ろしいものを見た顔で、部屋から逃げ出した。
…いい。逃げてしまえ。お前の写し身なんて、捨ててしまえよ。
――その晩、夜中になって真斗は帰ってきた。
努めていつもと変わらないよう接すれば、今日は真斗の方からキスされた。初めてだったかもしれない。吐瀉物の味はしなかっただろうか――?
ねえあなた。