夢には希望が現れるというのは、誰でも知ってる定説だ。
あーしたいとかこーしたいとか。そーなりたいとかどーなりたいとか。
そんな深層心理の願いが睡眠中、意識の海の表面に泳ぎ出て、俺たちの希望を叶えてくれる。
どんな突飛な願いだって、夢の中なら簡単だ。金も車も最高の女も、子供の頃に見たロビンフットの夢さえ叶えてくれるのがウィー・ドリーム。でも少し舵取りが、難しいのは否めないところで――……
「お早うございます、ジャン先生」
「…………」
俺は敢えて返事をせず、絶望的な気持ちで顔を覆った。……これはひどい。ひどい夢だ。
その世界は、夢だとすぐに気付けるくらいに、俺の現実からかけ離れていた。しかし別に、そこがジャングルだったとか宇宙だったとか、目が覚めたら毒虫になっていたとかそんなテンプレートな夢ではなかった。(毒虫は現実だったと言うアレはとりあえず置いて置くことにして)
そこは、ごくへんてつもない診察室だった――ごくへんてつもない診察室なら、普通に行くこともあるだろう?なのにどうして夢だとわかったか?――……それは、そう。
俺は酷い頭痛を覚えながら、のろのろと顔を覆う手を外した。さっき俺が見たのは幻で、改めて見た世界が調和を取り戻していることを願いながら――しかしそれが望めないことはわかっていた。
だって顔を覆った俺の袖は、覆う前も覆った今も、変わらず不条理だったから。ボスになってから寝る時以外ずっと来ている黒のスーツではない。これまで袖を通したこともなければ、一生通すこともないだろう衣服。
そして諦めて顔を上げた白衣の俺の前には――……ベルナルドがいた。
ベルナルド・オルトラーニ。メカと煙草を愛する、CR-5の幹部第一位。アップルグリーンの長髪と、眼鏡の向こうのそれと同じ色をした瞳。
「ジャン先生。仕事中のうたた寝は駄目だと何度言ったら判るんですか?」
「――…あ、ああ……ソウね。サボりは良くないね、ああ……」
「本当に判ってらっしゃいます?センセ?」
ベルナルドは溜め息を吐くと、大袈裟に眉を寄せ、唇を尖らせて見せた。それからその長い足を組み換えて、ぐっと俺の方へ上体を乗り出してくる――咄嗟に仰け反った俺の背に、椅子の背凭れがぶつかった。ベルナルドは睫毛に彩られた瞳を、悪戯っぽく瞬かせて見せる。…え、睫毛長くね?マスカラ?……唇、赤くね?
「……ベルナルド、ちょっと…」
「何ですか?」
「何て言うか、その……あ、あー…っと――」
「先生?」
ベルナルドは嫌に赤い唇でクスッと笑った。慣れた手つきで掻き上げた髪からシャンプーの匂いが零れる。俺はバカみたいに激しく脈打っている心臓を苦い笑みでやり過ごしながら、…酷い夢だな、と呟いた。
「酷いか?俺は結構楽しいけど」
「何言ってんだバカ…自分の格好、見て言えよ」
「結構似合ってないか?」
そう言って笑うと、ベルナルドはまた大袈裟に足を組み換える。黒のニーソックスとミニスカートの間から覗く太股が眩しい――……ご丁寧にガーターベルトまで。
「パンツが見えてマスよ?ナースさん」
「あら、先生ったらもう……見せてるのよ?何言わせるの恥ずかしい」
「まず自分の格好を恥ずかしがれ!」
「ハハ。まあ良いじゃない」
「……良いのか?それ…」
ベルナルドはニヤッと笑うと、その髪をもう一度掻き上げた。半袖から覗く剥き出しの二の腕が眩しいな、と狂った感想を抱きながら、俺はベルナルドの爪のエナメルの赤に気付く。爪も赤なら、ハイヒールも赤。眼鏡のフレームも赤だが、ナース服はピンクだった。
……敢えて言おう、ミニスカナースベルナルドであると…………
「先生。何を考えてらっしゃるの?」
ベルナルドに声を掛けられて、俺は一瞬意識を飛ばしていたことに気付いた。夢なのに、一体どこに飛ばすんだとかそんな疑問はスルーする。俺はベルナルドの手を取って、その爪先に口付けた。
「アンタのことさ、ハニー?」
「じゃあ、ジャンがダーリンか。ちょっとヘンな感じだな?」
「たまにゃアそんなのも良いだろ」
「不満はないね。じゃあまあ、この際不条理だとかそんなことはヌキにして――……」
ベルナルドは俺が口付ける手を解くと、その手ともう片方の手で俺の頬を挟んだ。そのままずいと顔が寄せられて、鼻先が触れ合うほどの距離になる。
間近で見たベルナルドの睫毛は何時もより長く唇も赤く、それと微かにファンデーションの匂いがした。ベルナルドは婀娜っぽく笑い、
「思いっきり楽しんじゃおうよ、ジャン」
「…アンタが楽しみたいだけだろ」
「ジャンだって嫌じゃないんだろ?」
「ま、そうなんだけど」
「…どうした?妙に素直じゃないか」」
「夢で意地張ってどうすんの。ヤるんならサッサとヤろうぜ」
「ハハ…相変わらずムードがないな。だからお前はモテないんだ」
「アンタをヤキモキさせないために、モテない努力をしてンのさ」
「そら嬉しいね。じゃ、俺も大人しくハゲようかな。俺がハゲでも愛してくれる?」
「もちろんハニー。愛してるぜ――だからハゲない努力をしてくれ」
「なんだそりゃ!まあ、ダーリンの頼みじゃしょうがないわね」
「物分かりの良いアンタを愛してる……」
俺はベルナルドの手を上から包むと、あっかんべーをするように舌を突き出した。ベルナルドがうっすら笑って、その舌先に噛み付く。痛みを感じるか感じないかの力加減で何度か焦らすように舌先を噛んでから、それを口に含むようにベルナルドは唇を重ねてきた。
「……ン、ぅ――……ふ、は…」
「…ジャン……」
押し付けられた唇が、口紅でぬるりと滑った。キスの合間に見たベルナルドの口紅が、僅かに取れかかっていて妙にセクシーだった。俺も似たようなものかも知れないけど…
「――は、ハハ…なんか、ヘンな感じだ」
「何が?」
「久々の口紅の味が、ベルナルド。アンタのなんて」
顎を伝う唾液を指の腹で拭うと、それは僅かに赤みがかっていた。
ベルナルドは眼鏡の向こうの瞳をちょっと見開き、それから嬉しそうに笑った。かと思うと悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺の目を覗き込んでくる。
「じゃ、今度ジャンもしてくれよ――……きっと、似合う」
「ばァか、誰がするか……それこそ夢でもないと、しねえよ」
「残念だ」
ベルナルドはちっとも残念じゃなさそうに笑うと、俺の首に掛かった聴診器を取り上げた。
口紅の残り味を密かに味わいながら見ているうちに、ベルナルドが足を組んで座り直す。
「着たままで良いから、シャツの前を開けて下さい」
どこか浮かれた響きのある指示に従って、俺はシャツのボタンを外した。ベルナルドは聴診器を耳に掛けて、俺が外し終わるのを笑みを浮かべて待っている。外し終えて視線で伺うと、ベルナルドが聴診器を伸ばしてきた。
「じゃ、診察します」
「ッ………」
ベルナルドが言い終わるよりも早く、胸に金属が押し付けられた。その冷たさに思わず喉が鳴って、慌てて唇を噛むとベルナルドがクスッと笑った。
「ふふ……ドキドキ言ってる」
「うるせえよバカ」
「ジャンの心臓の方が五月蝿いよ。――まあ、人のことは言えないけど。俺もすっごくドキドキしてる…」
「聞いてねえよ、…バカ」
話している間も、ベルナルドはいつも指でなぞっているようにして聴診器を這わせた。時々聴診器が乳首を掠めて、息を詰めそうになったが何とか堪える。しかしベルナルドはその反応も楽しんでいるようで、敵わないなと内心呆れた。…でも奴に弄ばれるのを不愉快に思っていない自分にも気付いていて、俺は自分にもっと呆れた。
「……下、自分で脱ぎたい?脱がせて欲しい?」
「変なこと訊くなよ…!どっちでもいいよ」
「じゃあ脱がせるけど、良いよね」
「何の確認だよ…」
「いや別に何も」
ベルナルドは聴診器から手を話すと、両手で俺のベルトを外しに掛かってきた。ベルナルドが身を乗り出したことでその頭が近付いて、花か何かのシャンプーが香った。ベルトを外しジッパーを引き下げる爪先もやはり赤く、一体誰に犯されかかっているのかわからなくなる。
「ジャン……もうこんなになってるの?俺の女装、結構そそる?」
「――だから、変なこと訊くなっつの!!」
「訊かないと診察にならないじゃない。教えて、ジャン?」
「……――ああ、くそ!似合ってるよ!!気持ち悪いぐらいな!!」
「お褒めに預り光栄至極――」
「――…ッあ、ばか…!それは卑怯……」
「そう?結構良さそうだけど」
「変、…態――…あ……ッ」
俺はベルナルドの押し付ける金属の冷たさに、爪先を丸めて悶えた。……そう、この野郎よりにもよってただでさえ敏感になりかかっている半勃ちのソコに、聴診器を押し当てて来やがってるのだ。
「それ、やめろって…!」
「どうして?」
「…頭がヘンになりそうだ……」
「今、どんな感じ?」
「冷たくて、でも、熱くて…も、嫌だって…」
「ホントに嫌なの?…触って欲しい?」
「訊くなってもう……ん、ふ……」
質問責めが鬱陶しくなって、俺は自分から唇を重ねた。ベルナルドの唇を舌先で舐めて誘うと、ベルナルドが吊り上げた唇を薄く開く。
「ジャ、ン……ふ、ッ…はぁ……む、」
「…黙ってりゃそれなりなんだから、…ン。黙ってろよ」
俺は手を伸ばすと、ベルナルドのスカートの中に手を入れた。内腿をわざとやらしく撫で上げると、ベルナルドがぴくりと身を跳ねさせる。攻めるのには慣れていても攻められるのには慣れてないらしい。ベルナルドの下着に手を掛けて、俺は手を止めた。
「…おいベルナルド、これどうやって脱がすんだよ」
まずこんなんどうやって穿いたんだと言うか。
「――え、知らないの?」
「幸運なことに、ガーターベルト付けた御姉様とは致したことがねえよ」
「そうなの、意外だな」
「何が…」
「結構遊んでると思ってたからね」
「どういう意味だよ……」
「そう言う意味さ」
ベルナルドは唇だけで笑うと、俺の手に手を添えた。
「下着の下に付けてるんだよ。だから普通に脱がせて大丈夫」
「……この知識が役立つところあると思う?」
「あったら嫉妬する」
「嫉妬だけ?」
「お前を殺して俺も死ぬとか?」
「おーこわ…ハハ――…ぁ、ン…」
ぐっと顎を掴まれて、会話の間離れていた唇がまた付けられた。その貪るような激しさにぎょっとする――さっきまでと同じ甘ったるいキスを予想していただけに。
「――ちょ、ぅ…ッン……は、待っ――あ……ふ…ッ……!?」
仰け反って逃がれようとしたのに気付いたらしいベルナルドが、逆の手で後頭部を抱えてきた。こうなるともう、逃げ場はない。息も吐かせぬキスの応酬に、俺は翻弄されるしかなかった。
「ベル――も、激、しッ……って……」
「――お前が、悪い……妬かせるな」
ベルナルドの声色が妙に真面目で俺はぎょっとした。ハッとしてベルナルドの瞳を見ようとしたが、ベルナルドはそれを遮るように俺の脇の下に手を入れて椅子から立たせた。そのまま体を反転させられて、ベルナルドに背を向ける形で机に手を付いて立たされる。…俺はてっきり、これから慣らされるものと思っていたんだが。
「……力、抜いて――」
「な、に……ぅ、あ…あ!?やッ、まだ、…痛……ひ――ッ」
「――ッ……ジャン……!」
とてつもない痛みに、目の前が真っ白になって意識が飛びかけた。その間にも、ベルナルドは奥へ奥へと腰を進めてくる。――ベルナルドの奴、前戯も無しに突っ込んで来やがったのだ。童貞か、お前は!
「抜、け、ば…かァ……!痛――ッあ、あ……や…ぅう、」
「ハハ――…夢って凄いな。もう全部入った」
「え。……え?」
「それともジャンが、俺専用になってくれたってことかな?」
ベルナルドは声を立てて笑うと、後ろから俺の顎を取って口付けた。その瞳は満足げに笑んでいる――それと妙な傲慢さみたいなものまで垣間見えて、俺はゾクリとした。
「奥まで届いてるの、判る?俺のこと感じてる?」
「…ホントアンタは言わせたがりだよな」
「可愛いお前の言葉なら、何だって聞きたいよ。こう言う時なら尚更だ――ほら、まだ痛い?」
そう言うとベルナルドは試すように軽く腰を揺すった。痛いはずのそれはすぐに快感に変換されて、俺は戸惑いながら身震いする。…夢って偉大だ。
「……――大丈夫、だと思う。もうあんま痛くない」
「じゃあもう良いかな――と言うか、このままじゃ俺がキツいからちょっと、我慢して」
無言で肯定を示した俺の上体を、ベルナルドは机に押し付けた。机にぺたりと付いた手に、ベルナルドの汗ばんだ手が重なる。骨張った男の指と、女のような真っ赤な爪のコントラスト。ベルナルドが上に覆い被さってきて、机が二人分の重さにギシリと軋んだ。首だけ振り返るとベルナルドの顔がすぐそこにあって、またどちらからともなく口付けた。
「………それじゃ、お注射します」
「――もう、挿ってるっつー…あとは、出すだけ?」
「そんなもの欲しそうにするなよ――心配しなくても、たっぷりくれてやる。ほら、先生?お薬の時間ですよ…?」
「お薬っつーかヤク――ッう、あ…あ…ッ!」
――最奥までをベルナルドのソレで貫かれながら、コレ一体どういう絵だよとかそんなことを思った。…いや今更だけど。ナースに襲われるとか男の夢かもしれないけどコレ普通逆――……
「こっち、集中してよ…何考えてたんだ?」
「…心配しなくても、アンタのことだって」
「本当に?――ああ、くそ。白衣邪魔だな…前から見る分には良いけど」
「好きで着てるんじゃねえよ!」
「でもこれってさ、潜在意識の願望って奴なんじゃない?」
「………え」
「俺か、ジャンの――どっちも?」
「……いや、ねーよ」
「本当に?」
「何だよ」
「別に――」
ベルナルドは意味深に喉を鳴らすと、真っ赤な唇で俺の首筋に噛み付いた。快楽に蕩けた脳に一瞬芯が通って、またすぐに蕩ける感覚。そのまま首筋を舐められて、ゾクゾクした感覚が背中を走った。
「もし…」
耳元で余裕のない声が囁いて、ビリビリと腰まで痺れが駆け抜けた。耳に触れる微かな吐息さえ、快感になって駆け巡るようだ。俺ももう余裕を装うこともできず、荒い息混じりに「なに」と訊ねる。
「俺とお前が、同じことを望んでたなら、ロマンチックだな」
「…ん、ぁ、それがこんな、しょーもないことでも…?」
「十分、素敵だ…ッ!」
「そうなの?――そうかな?…じゃあもう、そんでい、…ッいよ…」
「ジャン…」
俺は首だけ振り返ると、未だ俺の首に頭を埋めるベルナルドを見つめた。くしゃくしゃに乱れた髪はシャンプーと汗の匂いがした。俺はわざとぶしつけな視線でベルナルドを眺めて。
「お前のカッコ、結構イケてるぜ?…お前じゃなかったら、犯してたかも」
「そんな俺に、犯されてる気分はどうだ?」
「ハハ…何今更訊いてんだよ……――サイコーに決まってんだろ?…あ、おっきくなった……?」
「言わなくても自分が一番わかってる!」
「言わせたかったんだろ?」
「――本当に、お前は……」
ベルナルドは余裕のない表情に、うっすら笑みを浮かべ顔を上げた。俺も笑い返すと、また一瞬だけ唇が重なる。それも物足りないくらいの一瞬で離れて、ベルナルドは俺の背を痛いほど机へ押し付けた。俺の手に重なっていた手が離れたかと思うと、その赤い爪が痛いくらいに俺のペニスを握った。思わず仰け反った首筋に、またベルナルドが口付けを落としてくる。ついでのようにちろりと舌先で舐められて、その熱さが直で腰にキた。
「――く、あ…ぅ…ベルナルド…ッ!」
「なに…?俺もそろそろイきそうだ……」
「あ、……その、」
「ん?なんだって?ジャン」
ベルナルドは熱に浮かされたような声で訊いてきた。その間も俺のペニスを擦る手も、アナルを貫く動きも止まらない。机のせいで見えない、しかし俺の体の中心を弄っていることは間違いないその赤いエナメルを想像してゾクゾクした。
「――…せっかくだから、センセーって呼べば?」
「じゃあ先生。何の用かな?」
「何か言わせたいことあるんじゃないの?」
「何か言ってみたいことがある?」
「ハニーのイジワル…」
「そんな俺が大好きだろ?」
「抜かせ」
「イキたいって?」
「黙れよ…。ねえダーリン?――やっぱこっちの方が落ち着くわ」
「俺もさ、ハニー。何だい?」
「……ダーリンのぶっといお注射が、そろそろ欲しいな――?ってあ、ちょ――あ…あああ……ッ!?」
「お望みなら、何本でも」
「一本で十分だっ、て……ぅあ、ひッ――あ、もう…!」
「イけよ、ジャン――愛してる…!」
――……と言う、夢を見たのさ!」
「お前、アホだろ」
ベルナルドがあんまり嬉しそうなので、俺はハッキリ言ってやった。部屋には俺とベルナルドの二人きり、オンザベッド。俗に言うピロートークと言う奴だけど甘さはない――俺は溜め息を吐いた。
「…昨日あんだけ好き放題やって、夢の中まで俺のこと好き放題すんなよ……」
「それだけ愛が深いってことさ」
「アホ。あとナースてお前、バカか。しかも何でアンタが着るんだよ……変態か」
「着たかったのか?――じゃあ今度――」
「断る!お前はその性への情熱を、自分の前髪に向けてやれ!」
「ハゲても愛してくれるんだろダーリン?」
「意味わかんねえよ!」
「あ…そうか俺の夢だもんな」
ベルナルドは残念そうに小さく唸った。
「俺とお前が同じ夢を見てた、とかだったら素敵だったのにな」
「そんなの本の中にしかねえよ…ムードがなくて悪いけど」
「お前のそう言うとこ、結構好きだな」
「…モテないぜって言わないのかよ」
「…………ん?」
…やれやれ。俺はシーツから這い出るとベッドを下りた。素足で感じた床の冷たさに、奴の体温を条件反射的に思い出しながらバスルームへ向かう。
「――おいジャン、俺、モテるとかの行は省いたように思うんだが――おい!」
背中を追い掛けてくる声を聞き流して、俺は扉を蹴飛ばすように開けた。扉を後ろ手に閉めかけて、俺は思い返して扉の隙間から顔を出した。慌てて掛けたらしいベルナルドの眼鏡のフレームは黒。あれだけ目を惹いたマニキュアも今はない、
「……口紅、買っとけよ」
唖然とするベルナルドを笑って、俺はバスルームに鍵を掛けた。口紅の味がまだ口の中に残っているような気がした。