そしてその夜、俺はは一睡もせずクロエが帰ってくるのを待っていた。
悩みが大きいほど夜は長く、静寂は気が狂いそうなほど重い。
それでも待つ以外に、俺にできることはなかった。どこか逃げ出したいような気持ちにもなかったが、逃げ場などないとも同時に思っていた。
――逃げるなと言ったのは、俺だったのに。俺は窓に映る自分に向けて笑いかけた。
窓の外の雨はまだ止んでいなかった。雨の礫は夜に沈んで見えないのに、静かな夜だ、雨音だけが酷く聞こえた。雨はあまり嫌いではなかった。むっと垂れ込める雨の匂いはわりと好きですらあった。
――…クロエは雨が嫌いだと前に言っていたような気がする。
窓の雨垂れを眺めながら俺はそんなふうに連想した。…いつ、どんな風に聞いたのかは良く思い出せなかった。どうして嫌いなのかも――けどまあ、大して理由もなく言っていたのかもしれない。好意なんて曖昧だ。ここから、と言う明快な境目なんかないだろう。三人ほど頭に浮かぶ名前があって、俺は小さく唸った。ハッキリしたことなんて何もないんだ実際。この雨模様みたいにぼやけている。
…俺はこれから、どうしたら良いんだろう?
俺は帰ってきたクロエを、どんな顔で迎えたら良いんだろう……――笑顔で?粛々と?謝って?……わかんねえよ、そんなの――
空が白み始めた頃になってやっと、部屋の扉が開いた。
悶々と悩んでいるうちに、俺は浅い眠りに落ちていたらしい。俺はベッドから飛び起きると、その下段から身を乗り出した。立て付けの悪い宿舎には、今朝から雨の匂いが漂っている。俺は部屋の入り口に俯いて立っているクロエを見つめながら、掛ける言葉を見付けられないでいた。
「あ………その、」
「起きてたの。こんな時間まで」
「…ああ、まあ」
「見ればわかるけどね」
「寝てるように見えたんなら相当――なんだ。アレだよ」
「どれ…」
そう言ってクロエはちょっと笑った。その笑みにどこか肩の力を抜かれながら――何で俺の方が、気を遣われてるんだと泣きたいような気持ちになった。
…本音を言えば、一番に謝りたかった。謝って許されて楽になりたかった。『逃げるな、なんて言ってごめん。』――きっとクロエは許してくれるだろう、優しいから。…でもそんなの、自分が可愛いだけの行為だろ?
だから他に何か、掛けるべき言葉を探さなければと思うのに、頭は目先の欲求から離れてくれない。もっと何か、気の利いたそんな――……
「……ただいま」
再び落ちていた重苦しい沈黙を、先に破ったのはやはりクロエだった。その慣れた響きの似合わなさに息を詰めると、クロエはまた笑いかけてくれた。どこか宥めるふうさえある――…俺は喉まで出かかった懺悔の言葉を無理矢理呑み込んだ。それは今言うべきことじゃない――じゃあいつ?浮かんできた疑問符さえもやり過ごして、俺は笑みを作って手招きした。
「おかえり――そんなとこ突っ立ってないで、入れよ」
「…………」
「良いから。引きずり込まれたいか?」
「…それは、勘弁かな?」
クロエはおどけたように言ってみせ、…躊躇いがちに部屋に入ってきた。雨の匂いに僅かに嗅ぎ慣れた異臭が混じり、俺は驚愕する。
「怪我したのか」
「……ああ」
「見せろ。どこ」
「大したことないよ」
「じゃあ見せれるだろ」
「…………」
クロエは困ったように笑うと、それから腕を差し出してきた。差し出された利き腕の掌には、ぐるぐると几帳面に包帯が巻き付けられていた。包帯の白が夜に眩しい。
「…解いても?」
無言を肯定と受け取って、俺は包帯を解いた。どれだけの傷か判らないから、痛まないようにできるだけそっと。時間を掛けて念入りに解くと、その下から赤黒く濡れた傷痕が露出された。細くて深い傷痕だった。…これは。
「――ナイフを、掴んだんだ」
クロエは独り言のように呟いた。俺は傷痕に目を奪われたまま、その言葉を聞いている。傷痕を見た時から予想は付いていたが―――……
「刺されそうになって、それで……」
「……うん」
「俺なんか死んだ方が良いんだって」
「…………」
「ユーゴもそう思う?」
「――馬鹿か、お前…もっかい言ってみろ。顔の形が変わるまで殴ってやる」
「はは…ごめん。ありがとう」
「嘘じゃねえよ」
「解ってるよ――」
――本当に、解ってんのかこいつ。そこを間違われる訳には絶対に行かなかった。クロエを頼りなく思う傍らで、閣下への怒りが込み上げた。それは殺意にも似ていた。『クロエが死んでほっとした』――だと?自分本意な畜生が。死んでなかったから殺してやろうって?…――調子に乗るなよ。
「…俺さ、ユーゴに嘘吐いてた――……かも」
「………ぇ」
思いがけない言葉に、俺はハッと憎悪を散らした。クロエは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、血に濡れた手で俺の手を握る。乾きかけた血が、雨の匂いと混じって香った。掌と掌が、血でしたりと貼り付く。
「本当はちょっと会いたかった…兄貴に。俺まだ諦められてなかった。まだ、やり直せたらいいとか思ってた。ここから出ていけたら、とか…」
「…………」
「会いたくない気持ちもあったよ?でも判んないよ、結局どっちだったかなんて……竹じゃないんだ。割り切れるもんじゃない」
クロエは叱られた子供のように項垂れて、俺の言葉を待っていた。指先が所在なさげに俺の手の甲を掻く。――クロエの言うことはなんとなくわかるような気がした。と言うかさっき俺が考えていたことと正しく同じだろう。『人の気持ちに、ハッキリしたものなんかない。この雨模様のようにぼやけて――』
それでも俺は、訊いてみたいと思った。
「…昨日のは全部、嘘?」
――俺のこと好きだって言ったのも、方便?
…とまでは、言えなかったが。
別にクロエのことが好きだから訊きたかったわけじゃない。ただ何となく悔しかっただけ…
クロエは言外の意味を察したらしかった。そして僅かに目を細めて、俺の手首を掴む。そのままぐっと引き寄せられれば、閉じ込められて逃げられなくなった。
掠れた声が、違うよと言った。
「好きだよ、――嘘じゃない。お前のことがずっと…」
俺を掻き抱く腕は縋るようでさえあった。震える声が囁く。
「好きなんだよ」
「……なんで」
「え?」
「なんで、俺なんだよ…」
意味わかんねえよ。そう吐き捨てたのに、クロエは質問に答えなかった。カッとなって突き放そうとしても、クロエは放してくれなかった。
暫くもがいているうちに、俺はクロエに今晩何があったのかを思い出す。概要は知らない。それでも辛いことがあったのは間違いない――……狡いと呟くと、クロエが笑った。抵抗なんか、できないじゃないか。
「狡いよな。ごめんな」
「謝るな…」
その上謝らせて、尚更俺が気が遣えないみたいじゃないか。俺は体の力を抜くと、クロエの胸に凭れた。雨よりも血よりも、クロエの匂いが濃くなる。
雨音も何も聞こえなくなるのに、それほど時間は掛からなかった。