「――こんな時にさあ、…こんなことしてていいわけ?」
「いいだろう、別に…手はそこそこ足りてるし」
「そうなの?…じゃあ、いいか――ちょっと待って。それは流石に…」
「良いだろう別に。減るものでもない」
「アンタは良いかも知れないけど俺は……あー、ああ、…ありがとう……まあ、いいか…?」
と言うか多分、全然良くないぞ。
俺はソファに背を沈めながら、内心溜め息を吐いた。今は司令官室。宿舎の最奥にある、一番守られるべき施設だ。そして俺が座っているのは、恐れ多くも司令官の椅子だ。座るべきエズラはと言えば、窓際に立って俺を見下ろしている。
手の中にはエズラが淹れてくれたホットコーヒー。一兵卒ごときが司令官に何をやってもらってるのか……特待にもほどがあるなと時々思う。
「…それで?今日は何の用だよ」
コーヒーを喉に流し込みながら訊ねると、エズラがおや、と言う顔をした。
「用がなければ呼べないか?」
「いい歳して何をだな…それもこんな状況下で。俺はまだしもアンタが残って」
「代わりが何とかしてくれるさ。俺よりよっぽど向いてるよ」
代わり――マキナのことか?
「…戦争にだろ。司令官だったら、アンタのが上だ」
「そうか?」
「そうだよ」
俺はコーヒーと一緒に、呆れた溜め息を呑み込んだ。おかわりは?とエズラが薄く笑って、断る間もなくカップにまた濃いコーヒーが注いでくれる――…だから、立場が間違ってるぞ。俺はもう溜め息を隠さなかった。
季節は初夏から、梅雨へと変わり始めていた。窓の外にはこの頃見慣れた濁った雨空。天気が悪化するのと同調するように、戦況もまた良くない方へと傾き始めている。今日だって本当なら俺もエズラも出征するはずが、何故か突然にエズラが振りかざした権限によりこんなところで茶(コーヒーだけど)なんかしばいている。罪悪感と優越感の入り混じったもののために、俺はどこかむずがゆい気持ちを味わった。俺たちがだらけている今も、どこかでは俺の仲間が敵と殺し合っている。耳を澄ませば銃声の一つでも聞こえそうな気がした。
「最近、どうなんだ」
「なにが」
「色々と」
「色々ねー…」
漠然としすぎじゃないか?考えるのが面倒で俺はエズラに伺う視線を向ける。するとエズラは、クロエとは最近どうなんだというようなことを言ってきた。ぎょっとしたが、共通の知り合いの上同室だ。そら訊くか。
――もう片手では数えられない回数、関係を持った。
…なんて言える訳もない。
エズラは知りようもなく笑った。
「最近こっちの都合で駆り出してるから、寂しいんじゃないか?」
「何を言ってるんだアンタは…別にフツーだよ。変わらない」
「そうか」
そんなことないだろう、と斜め上の自分が囁く。自分じゃなければ殴ってやったのに。
「――ていうかアンタ、あいつに何させてんの?あの器用貧乏に」
「狙撃だよ。手間は掛かるが、効率的だ」
「…まああいつの役立つスキルなんて、そんなもんか」
まあもっと危ないことをやらされている可能性もあったわけだから、とりあえずはホッとした。そしたら内心の安堵が顔に出ていたらしく、エズラが俺を見てちょっと笑う。どうもバツが悪くて、俺はエズラを睨め付けた。わざと噛み付くような口調で、
「――アンタもしかしなくても本当に、用ないな?」
「ないな…怒ったか?」
「別に。他の奴らに申し訳ないだけ」
「司令官権限…と言ったら?」
「しょうがないな、今回だけ」
言われたからっておめおめ来た時点で、俺ももう同罪だしな。責める権利もあったものか。不毛そうなので話題を変える。
「アンタはどうなの、最近」
「変わらないな、こっちも――…変わらないように、努力をしている」
するとエズラは不意に、真面目な声色になった。芳しくない戦場の司令官なんて最悪だろうなと推し量りながら、俺はエズラの弱味を見せられた気がして狼狽えていた。エズラにしろクロエにしろ、周りに気を遣いすぎるから。弱味なんかめったに見せようとしないんだけど――それだけ信頼されてるのかと思うと嬉しい気もしたが、それだけ状況が、と思うと複雑だった。妙な空気を誤魔化すようにエズラは明るい声を出した。
「ここが片付けたらお前、俺の養子になれよ」
「……………は?」
「嫌か?」
…いや、嫌ではないけど。あまりに突然の勧誘に、これが言いたくて呼び出したのかと疑った。本当かどうかはわからないが、とりあえずエズラはひどく楽しそうだった。
「…それ、死亡フラグじゃない?」
「知らんな。これから先、もう成るようにしか成らん。考えるなら楽しいことがいい」
「…楽しいか?」
「楽しいな――まあ、嫌なら良いぞ。どうせやれるのは名字くらいだ。天涯孤独の身だしな」
「…え、そうなの」
んー、とエズラが曖昧に頷いた。エズラとはもう長いけど、踏み込んだ話をするのは初めてのような気がした。そもそも俺には踏み込むような過去がないし、エズラはどちらかと言うと話すより話を聞く方が好きらしいし。
「家族仲が良くないからな。親なんか居ないようなものだ」
「兄弟は?」
「居ないよ」
エズラはなんでもない風に答えた。嘘を吐いているようには見えず、不審な様子もどこにもない。思い切り疑う視線を投げてもエズラは怯まなかった。
「本当に?」
「俺は一人っ子だよ」
――もし、閣下のことがなければ信じただろう。俺はカップをテーブルに置いた。掌の震えのせいで、乱暴に置いたみたいになってしまう。ソファも立って、エズラと同じように窓際に立つ。
怯んでいるのは俺の方だった……――こんな風に二人きりで、まるで家族みたいに――話せる機会は、もうそう持てないような気がしたのだった。この夏を越えられる確証なんかどこにもない。そもそも、だからこそエズラはこんな時に権限まで振りかざしたのかもしれない。……知らないことが、多すぎる。俺は訊くなら今だと思った。
「嘘だ。……弟が、居たよな」
俺の思い切った質問に、エズラは何も答えなかった。それどころか何か関係のない話でもされた時のように、不思議そうな顔で瞬きする。
「居ないよ」
「居ただろ。閣下が言ってた」
「…西園寺?」
「そう。…居たんだろ?」
「他に、何か訊いた?」
「………アンタの弟は、事件に巻き込まれて死んだって…」
「それだけ?」
「ああ」
「本当に?」
「…………」
「――そうか。あいつも、バカだな」
そう言ったエズラの声色に、どこか同情めいたものがあったのは何故だろうか。エズラはその赤毛を掻き上げると、露になった眉間を苦々しげに歪めた。
「…さっきのは嘘だ。居たよ。隠してた。軽蔑するか?」
「別に…びっくりしたけど。何で隠してた?」
「言いたくなかったから」
「…………」
「信じられない?嫌いになったか?」
「……アンタの弟の話、聞かせて」
俺は質問には答えず、ただ話を促した。――嫌いになんかなってない、信じたいと思っている。
暫く躊躇する間が有って、それからエズラは息を吐いた。
「……お前に良く似てた」
「…………」
「瓜二つだった。だから同じ名前をやった」
「――俺と、…俺が」
「弟の代わりが欲しかった。だから、お前を選んだ――今は違うと言ったら、信じてくれるか」
「…………」
「……聞きたくなかったろ」
俺は頷いて返しかけて、結局何もしなかった。
俺がエズラに会ったのは、俺が8才ぐらいの時だった。エズラはもう二十歳近い青年将校で、接点は全くなかった。
胸中には、どこか腑に落ちたような思いがあった――…もちろん、辛かったけど。エズラは気まずそうに目を逸らして窓の外に目をやった。俺もつられて目をやりながら、エズラに何か言って欲しいと思っていた。――俺を擁護する一言を。
しかし重苦しい沈黙を破ったのはエズラの言葉ではなく、激しいノックの音だった。ぎょっと飛び上がった俺たちが振り返るよりも早く、扉は開いていた。
「エズラ!!あいつが――…あいつが、」
「マキナ?」
血相を変えて部屋に飛び込んできたのはマキナだった。マキナは俺のことなど、全く目に入っていないようにエズラへと歩み寄った。真っ白になるほど握り締めた指には、幾筋かの金髪が絡まっている。元は美しかったろうその色素の薄い髪は、血や埃で薄汚れていた。しかしこれまで戦場にいたはずのマキナはと言えば、雨の匂いすらしない。マキナは痛々しいくらい思いつめた表情を浮かべてエズラに縋りついた。
「あいつが、――いなくなったよ…もう、終わりだ。もう駄目だよ…だからもう俺と――」
「逃がしたのか。お前がいながら」
「二人が見張ってるから大丈夫かと思っ…」
――それは一瞬の出来事だった。そして俺はその一瞬がとっくに過ぎ去っても、状況を呑み込めなかった。俺に判るのはこのわけの判らない状況で俺の知らない理由で、エズラがマキナを殴ったと言う客観的な事実だけだ。
エズラは床に倒れたマキナの襟を掴んで引き起こすと、俺の見たことがない軽蔑に満ちた顔でマキナを見下ろした。
「言い訳など聞かん。探して、殺して来い」
「もういいじゃん…放っとこうよ。あの人何にも悪くないじゃん」
「命令だ。『裏切るな』」
「…………」
そしてエズラがマキナの襟から手を離すと、マキナはまた床へと崩れ落ちた。慌てて膝を付いてその背を支えると、マキナはやっと俺に気付いたようだった。マキナは驚愕に零れそうなほど目を見開き、エズラの方を伺った。何か俺には解らない視線の応酬がある。最後にマキナはちらりと俺を伺うと、俺が声を掛ける間もなく立ち上がった。何事もなかったかのように立ち去る背中には明らかな拒絶が貼り付いている。
そしてバタンと扉が閉ざされ、俺はまたエズラと二人きりになった。
…あまりにも気まずい。俺はマキナに続いて部屋を出るため立ち上がった。エズラの視線を気にしながら、一歩、二歩――小股に歩いて、俺は扉の前に立ち尽くした。何か言いたくて、何か言われたいのに。冷たいドアノブが温い温度になった頃、俺は振り返った。絡んだ視線の柔らかさに俺は怯んだ。
「ユーゴ」
その『名前』はどこか、遠くから聞こえるようだった。
「これはお前の名前だよ。お前のものじゃない時もあったが…今は違うだろう?お前が俺の弟じゃないことくらいわかってる…信じて欲しい」
「…何を」
「俺をかな……――こうなるのが嫌で、言えなかった」
「…………」
どうも悔しくてたまらず、俺はぎりりと奥歯を食いしばった。視界がうっすらぼやけて、俺は床に目を落とす。エズラが何か言い掛けたのを手で制して、俺は口を開いた。何か聞いてしまえば『決心』が揺らぎそうだった。
「――アンタの養子にはなれない………弟になりたくないから」
「ユーゴ…」
「……聞かなきゃよかったと思ってる。ごめん」
――吐き捨てて、俺は扉を開けて部屋から飛び出した。廊下に人影は、ない。俺たちが『家族ごっこ』なんかに興じている間にも、事態は動いている。それも悪い方へ。悩んでる場合じゃない、切り替えろ。道具なら、考える前に戦え。
エズラは追ってこなかったし、マキナがどこに行ったのかもわからなかった。部屋に戻ってもクロエは居なかったし、アカルも戦場だろう。
どこか逃げ出したいような気持ちを、味わって、いた。……消えていなくなりたいような空虚さを、感じて、いた。
――日が沈む頃になって、宿舎は急に騒がしくなった。外に出ていた部隊が帰ってきたのだろう。
俺は何をするでもなく寝転がっていたベッドから身を起こすと、外の音に耳を澄ました。がやがやとしたざわめきと、足音。俺は居ても立っても居られず、ベッドから下りた。扉の前に立ち尽くしていると、やがて焦れったいくらいゆっくりとドアノブが回った。
扉を開けたクロエは、俺を見て驚いたようだった。雨と血でしとどに濡れた髪と衣服。
「ただいま――何かあった?」
俺は答えない。何から話して良いものかわからなかったし――俺がしたいのは、相談ではなかった。クロエは困ったように笑うと、自分のびしょびしょの服を引っ張った。
「…とりあえず、風呂入ってくるよ酷いから――まあ、シャワーだけど。バスルーム欲しいね」
クロエはそう言って苦笑すると、荷物を無造作に床に置いた。多分部屋には荷物を置きに来ただけだったんだろう…荷物を置いたらまた、どこかに行ってしまうのだ……――狂いそうなほどの焦燥感。俺はクロエの腕を掴んだ。力を込めすぎたらしく、クロエが一瞬眉をしかめる。しかしそれはすぐに消えて、困惑した顔になった。
「どうしたの」
「…………」
「……何があった?」
「…………」
それでも何も言えないで居ると、クロエはまた苦笑して扉を後ろ手に閉めた。それが始まりのサインになった。
俺は背伸びすると、自分からクロエに唇を重ねる――……拒まれない。俺はキスの狭間に囁いた。
「好きだ――多分。だから置いていくなよ……頼むから。俺を一人にするな」
「ゆ……」
「呼ぶな。それは俺じゃない」
「それ、どういう…」
「――訊くな。もう良いから…抱けよ。俺のこと好きならさあ……」
「…………」
クロエは不可解そうに眉をひそめたが、それきり何も訊くことはなかった。雨で冷えた指先に顎を掴まれて更に深く口付けられる。でも舌はびっくりするぐらい熱かった。
服が汚れるのも構わずに俺はクロエに縋り付いた。するとクロエはハッとしたように俺を引き剥がす。
「――せめて着替えてから…お前が風邪引く」
「引かねえよ」
再び身を寄せた俺を、クロエは尚押しやった。
「引くって…ちょっと、待って」
「……嫌か」
自分でもびっくりするぐらい弱々しい声が出た。それはクロエも同じだったらしく、大きく目を見開いていた。酷く惨めな気分だった。言わなくても良いことまで言ってしまいそうだ。
「嫌なら良いよもう――…どうだって。ごめん」
「――ちょっと待って。誰も嫌だなんて言ってないだろ」
「言ってるようなもんだろ…!――くそ、誰も信じられたもんか」
「何でそうなるかな…だから、言ってないって」
「言ってる」
俺は急に馬鹿らしくなって、クロエの横を擦り抜けて部屋を出た。惨めな気分が液体になって零れそうになって、ぐっと奥歯を噛み締める――俺が馬鹿だった。好きとかどうとか、簡単に信じた俺が――……
「待てって…!!」
閉め掛けた扉は途中で止まった。振り返ると、片手で扉を押さえるクロエ。苦々しい表情が呆れられたようで恐ろしく、俺は振り返ったことを後悔した。
それで改めて逃げようと背を向けた俺の腕をクロエが掴む――痛いくらいに。慌てて振り払おうとしたが力では勝てず――無理矢理部屋に引きずり込まれた。…カチッと鍵まで閉まる音。あまつさえ覆い被さって壁に縫い止められて、逃げ場は全くなくなった。
「…誰も嫌だなんて言ってないだろ」
「…………」
「こっち向いて。何があった?」
「……理由が要るのかよ」
「心配してるんだよ…解るだろ?」
「わかんねえよそんなん…!」
ついに涙腺が決壊して、俺はそのままにクロエを睨んだ。
「嘘吐き。俺のことなんか好きでもないんだろ――本当は嫌いなんだろ今も」
「だから何でそう……あー、何で泣くの。何があったか訊いてるだけだろ」
「言いたくない」
「あのな…そんなに、嫌なことがあった?」
「…………」
俺は無言でいることで、その問いに答えた。言えば楽になったかも知れないが、――同情されるのは御免だ。クロエはそれでも何か言いたげな顔をしていたが、やがてわかったよ、と諦めた顔で笑った。
「もう何も訊かないから――嘘吐きとか、言うな。…嬉しかったよ」
「…何が」
「俺のこと好きだって――多分じゃなきゃ、もっと良いんだけど」
そう言って、またクロエの冷たい指が俺の頬に触れた。その服の裾を掴むと、確かに凍えそうなくらい冷たい。…俺が悪かったな。
一応謝ろうか迷っているうちに視線が絡んで、クロエはにやりと笑った。
「…寒いな。暖めてくれるか?」
「――アホか、お前」
「嫌じゃないだろ。…ベッドに行くか?」
「……ここでいい。言わすなバカ」
「アホと言ったりバカと言ったり…」
クロエはそう笑うと、濡れた服を自分で脱ぎ始めた。重い音で床に落とされたそれを見ながら、俺もクロエの前で服を脱いだ。再び縋り付いたクロエの体はやはり冷たかったが、下腹部だけが熱を持っていて笑った。
「何なのお前。何だかんだ言っといて」
「血を見た後ってなんか、高揚するよね」
「するけど」
「いやまあ――…言い訳だけど。……泣き顔、そそった」
「最低だな…」
「ごめんとしか言えない」
クロエが本当に申し訳なさそうなのが尚更可笑しかった。俺はクロエの背に回していた手を下ろすと、既に勃ち上がり掛けていたクロエのそれを握る――クロエが既にそうなっているという事実が、腰にズキズキ来ていた。そのまま上下に扱き始めると、クロエが弱った笑みを浮かべた。
「積極的だな…そう言うのもクるなやっぱ」
「お前もさっさと俺の後ろ解せよ……なに、それも俺でやれって?」
「なにそれ見たい。――けど、俺がやらせていただこうかな…舐めて」
つ、と目の前に差し出された人差し指と中指を、俺は手を動かしたまま咥えた。出征前に誰かにされたのを思い出しながら、わざと舌なんか絡めてみたり。上目遣いに伺うと、クロエが苦笑して目を逸らした。そのうちに口内から指が引き抜かれて、また壁に背を押し付けられた。濡れた指先が入り口に触れて、背筋が恐怖とも期待とも付かないものに震えた。俺はクロエのそれから手を離して、その肩に回した。そのうちにゆっくりと冷たい指が分け入ってくる。
「ん、あ――……ぅ、冷た…ッ……」
「だからほら、暖めてってば」
クロエは無茶なことを言いながら、二本の指を更に奥へと進めた。度重なる情交でそれに慣れ始めたそこは、そこまで痛みを感じさせない。俺は冷たさに身震いしながら、指の感覚を追っていた――が。
「…って、あッ!?ちょっ――ばかそれ、は、あッ…ン。や…!?」
「何?」
「ぅあッ、ゆび…ッ!!その指でそこ、触んのは本当ヤバいから…ンの、やめ――ッん、あッ」
と言ってもクロエは止める様子が全くなかったし、…俺も本当に止めて欲しいかと言うと別にそう言うわけではなかった。ただ何か、未知の刺激が怖かっただけで…氷みたいに冷たい指先で前立腺を挟んで刺激されるなんて。高ぶっていく側から冷やして宥められるような妙な感覚。堪えようとするとクロエの指を締め付けてしまい、逆にまた苦しめられることになる。そのうちにクロエの指に体温が戻り始めて俺はホッとした。
「ほらもっとくっついて。寒い」
クロエは指でまだ俺のアナルを弄くり回しながら、更に身を寄せてきた。クロエの体が冷たいのか、俺が火照っているのかもう良く判らない。ただ冷たい胸から肌越しに聞こえる、クロエの鼓動が速くて妙に赤面した。俺も同じようなものだけど。
「……クロエ」
「なに?」
「………もう、良いから」
「――は?」
俺は壁から僅かに背を浮かせると、眉をしかめたクロエの耳に唇を寄せた。それから、できるだけ挑発的に囁く。こちらとらずっと、欲しくて堪らなかったんだから。
「……もう、くれよお前の」
「…え」
「ソコはもう暖まってんだからいいだろ。…今ので冷えた。暖めて」
「…………」
「何だよ。…おかしいかよ」
「――いや、何て言うか…」
「なに」
今度赤面したのはクロエの方だった。クロエは顔を空いた手で覆うと、明後日の方向へ顔を逸らした。
「――さっきから何の、ご褒美これ。夢?だったら明日の朝は洗濯から始まることになる」
「知るかアホ。――嫌なのかよ」
「だから、嫌だなんて言ってないって……くそ。寝かせないくらい犯したいけどそう言うわけにもいかないからな…」
「お前なー…」
「――なあ、ユーゴ」
突然、クロエは真面目な声を出した。『ユーゴ』はやめてくれ、と口を挟むのも躊躇われるくらいの。表情だって真面目で、さっきまでのにやけた顔はどこかに行ってしまっている。
「この先何があっても、何が変わっても――……俺のこと、信じてくれるか?…意味わかんないと思うけど、今は」
「『今は』?」
「…すぐ解るから、今は訊かないでくれ――何があっても変わっても、お前が好きな俺のこと、信じられるか?好きになってくれとは言わないから、信じてくれ――……お前さえ信じててくれれば、もう何だっていい」
「…………」
クロエが何を考えてそう言ったのかは判らなかったが、そう言って無下にするのはどうも躊躇われた。それにだからって、断る理由なんて何もない――……俺はクロエを利用しようとしているんだから。
「…ああ、信じるよ――お前を。お前が俺を好きでいる限りは。…俺ンこと、好きか?」
「好きだよ。どうしようもないくらいに。お前が俺の――全部だ」
「…俺も、多分」
そうしたいと思った。これからこいつが俺に居場所を与えてくれると言うなら、そうしよう。一人は寂しい。拙い家族ごっこは楽しかった。でもそれも終わったなら……何か代わりが必要だ。恋人ごっこがそうだと言うなら、側に居よう。今は俺を安心させてくれるものが欲しくて堪らなかった。
「クロエ早く、挿れて……もう、良いから。焦らすなよ――…暖めてくれないの?」
「…やけに煽るな今日は……くそ、休み欲しいなあ」
「年中無休ですものね、この仕事」
「そうそう――忌々しい。初めて辞めたくなった」
「嘘こけ。ずっと辞めたかったくせに」
「お前を犯すだけの簡単なお仕事に転職したい」
「下手な奴は即首だ」
「厳しいな…じゃあちょっと、また頑張ろうかな――アツいうちに、いただきます」
そしてクロエの指が後孔から引き抜かれ、その腕が俺の膝裏を抱えた。その腕はまだ冷えきっていて冷たいのに、入り口を擦る切っ先は火傷しそうなほど熱かった。濡れそぼった切っ先が押し入ってくる感覚に、痛いくらいの高揚と吐きそうなくらいの嫌悪感を同時に覚えた。しかしその背反も自身を高ぶらせるエッセンスにしかならず、その果てで滑稽だと思った。――こんなこと、何にもならないのに。
「――あ、あああ、あッ、クロエ、…うぁ、く――……あ、は…ッ」
クロエの唇が汗ばんだ額に落ちて、鼻筋を通って唇へ下りてくる。俺はそれを受け入れながら、クロエの壁に付いていた手に俺のそれを握らせた。今はただこの暴力的な快感に身を任せて居たかった。
幾ら殺したって明日は我が身で、生き残れる保証なんかどこにもない――だから別に誰だって良かった。偶々これがクロエだっただけで……好きとか嫌いとか、知ったことか。俺は人間じゃないんだぞ?……親の愛も知らないのに、感情なんかあったものか。
「…もう、イきそう?」
男同士のアレ的なもので、クロエにはそれがわかったらしかった。僅かに頷いて返すと、クロエが熱の籠った吐息で笑う。
「――一緒にイきたいな。まだ我慢できる?」
俺がまた頷いて返すと、クロエは律動を再開した。
クロエ自身も限界が近いらしく、俺の中のそれがもうはち切れそうに膨張していた。俺の射精感も既に堪えきれないほどになって、クロエに根元を掴まれていなければすぐにでも達してしまいそうだった。どうしてこんなにも乱れているのか――……俺はクロエを抱き寄せた。クロエの体はもう先程のように冷たくなく、それどころか僅かに汗ばんでいた。それでも雨と血の匂いは消えない。
――雨。
あれは何年も前のこんな酷い雨の日だった、と斜め上の冷めた自分が思った。今でも意味が解らず、繰り返し反芻している日のこと。
隣にはクロエがいた。雨をか俺をか、それとも両方を激しく睨め付けて彼奴はそこにいた。
その、いつか過ごした雨の日のことを、クロエは覚えているだろうか?
訊いてみたくなって口を開いても、漏れるのはみっともない喘ぎだけだった。塞き止められた欲望が出口を求めてズキズキする。堪えようとすればするほど後孔をきつく締め付けてしまい、その刺激に狂いそうになった。その上、クロエが律動も手もそのままに、『好き』だなんて囁くものだから尚更もうどうしていいかわからない。
「ユーゴ、そろそろ…」
クロエの切ない声。俺はコクコクと頷くと、より一層の力でクロエの背にしがみ付いた。クロエがそれを待って――俺のそれから戒めを外した。そしてギリギリまで引いたクロエのそれが、一気に奥まで突き立てられる。俺の中でそれが、びくりと震えたのがわかった。火傷しそうに熱い塊が、弾ける――……
「――あ、ッあ、あああ…!…あ。はあ…」
「くぅ…ッは、あ……」
…お互いほとんど同時に果てて、同じように胸で息をしながら。ふと、まだどこか熱に浮かされた視線が絡む。
それでどちらからともなく顔を寄せて、唇を重ねながら――……罪悪感にも似たものを感じていた。