明け方になって、俺は激しい雨音で目を覚ました。時計はないし、こう曇り空では予想のしようもないので正確には何時かは判らないが。
夕食を抜かした腹は空腹を通り越して軽かった。
「クロエ――……寝てるか」
その頭が俺の肩口に埋められているせいで表情は伺えなかったが、寝息の感じでまだ寝ているだろうと判断した。昨日あんなに冷たかった体は、今ではもうすっかり体温を取り戻している。
――あの後。
当然、壁際の一回だけで終わりはしなかった。どちらも引っ込みが付かず今度はベッドに転がり込んで、狭い狭いとぼやきながらもまた何回か繋がった。そして二人して疲れはてて寝こけて――俺が起きたのが今、と言うわけだ。寝る寸前に腰に回されたクロエの腕はまだゆるく絡み付いていて、寝返りも楽に打たせてくれない。…骨張った長い腕と指。あまり深く考えるとその指が昨日俺に何をしたのか思い出し、ムラムラ来そうで途中で遮断した。いつの間にか足も絡められていて酷く落ち着かなかった。どうしようかと悩んでいるうちに、クロエがもぞりと身動ぎした。腰に回った手も拘束を強めてくる。
「起きた?」
「………おはよう」
「まだ早い――風呂行かなきゃな」
「…………」
クロエは俺の肩口で、一つ大きく欠伸をした。ぴしっと骨を鳴らす音も。それからクロエは頭をずらすと、俺の顔を覗き込んできた。元々そこそこ整っている顔が、寝起きで多少緩んでいて可笑しかった。それで変な顔をしたクロエをごまかすように、俺は今何時、と尋ねる。クロエはうん、ともああ、とも付かない声で返事をし、拘束をほどいて自分の手首を見る――が、そこには何もはまっていなかった。
「――あれ。いつ外したっけ…あー。何時だろ。わかんないごめん」
「いや良いけど。大丈夫か?」
「……まあどうせ、貰い物だし良いや。くれたの兄貴だし」
「…………」
「清清した。別に何となく使ってただけだし…」
クロエはまた一つ欠伸すると、首を捻って窓へ目を向けた。開いたカーテンの向こうでは、視認できるくらい大粒の雨が降っている。――そう言えば。
「…そう言えば、雨嫌いなんだっけ?」
「ああ……うん。嫌いだよ」
「何で」
「――俺が死んだ日が雨だったから」
「『死んだ』?って…」
お前は今ここで、生きてるじゃないか。クロエは窓から俺へ視線を戻すと、また腰に手を回してきた。そのままぐっと抱き締められて、寝起きの火照った肌同士が触れ合う。やらしさとかはなかった。ただ信頼を示すようなそんな抱き締め方だった。それから僅かに身を離されて、クロエは俺にまたあの傷痕を見せた。真一文字に走る長い傷痕は、そこだけ肌の色が違った。
「…これで俺は、と言うか西園寺の俺は死んでるんだよ。戸籍上じゃ5歳の時に死んでるが、西園寺家だけは俺がまだ生きてるのが判ってた――#4で。でもそれは、国にとっちゃ都合が悪い。いつ俺が名家の西園寺家と関係悪化の引き金になるかわからないからな。その前に、国家は俺に何らかの始末を付けなきゃならず――偶々起きたこの事件で、俺は死んだことになった。つまり俺は西園寺クロエじゃなくて…その亡霊みたいなもんなんだ。……だから、雨はそれを思い出すから、嫌いだな」
「…そうか」
「そうだよ」
――だから、閣下はクロエが死んだと思っていたのか。と俺は納得した。俺は手を伸ばすと指先でその長い痕をなぞる…何か上手く返したかったが、とてもできなかった。
暫く何をするでもなく抱き合っているうちに、睡魔がまた襲ってきて俺は欠伸を吐いた。クロエの胸に頭を埋めれば、あやすように背中を撫でられる。耳を打つ五月蝿い雨音が遠くなっていく。何もかも朧気になる感覚の狭間で。
「なあ、ユーゴ。俺昔さ――」
「うん……」
呟いた声は自分でわかるくらい眠気を纏っていた。そのせいだろう、クロエが小さく喉を鳴らして笑ったのが聞こえる。しかしその笑みもすぐに消えて、クロエは真面目な声で囁いた。その言葉もやはり遠かったが、
「……ああ。知ってたよ」
そう返してすぐに俺は眠りに落ちてしまったので、俺はクロエがどんな反応をしたかは知らない。でもまあ、そこそこ驚いたんじゃないかなと思う。知ってて、今こんな普通に接してるのかよって。知ってたよ。
お前が俺を殺したいと思ってたこと。
目が覚めると、クロエはまた居なくなっていた。どうやらかなり前に出ていったらしく布団も冷たく、昨日クロエがいた形跡と言ったら相変わらず荷物が放置されているくらいだった。
ベッドから見下ろして伸びをすると、不自然な寝相のせいで体がガチガチに強張っているのが良く判った。
外は夜更けに起きた時と変わらず濁った雨空。今が何時なのかも、あれから何時間経ったのかも良くわからないが――とりあえず風呂。知り合いと遭遇して気まずくなる危険はあるが…だから何だって言うんだ今更。女もいないのに他にどうしろって言うんだ。
俺は脱ぎ捨てた衣服を適当に羽織ると部屋を出た。
シャワールームの時計を見ると、時間はまだ相当早かった。また幸運なことにそこには誰も居らず、俺はのんびりシャワーを浴びてから部屋に帰った。
帰っても、やはりクロエは居ない。適当に時間を潰してから朝礼に行っても、誰も俺の隣に座りはしなかった。そもそもクロエは西園寺と言う名字のせいで、アカルは生い立ちのせいで、マキナは役職のせいで、俺はエズラのせいで回りから距離を置かれているフシがある。椅子に腰掛けてぼうっとしながら、昨日、どうしてアカルは俺の隣に座ったのだろうと考えた。そのうちに朝礼が始まってエズラが話始める。その傍らには今日もマキナは居なかった。
「おはよう諸君。昨日はご苦労だった。諸君らもある程度は勘づいているかも知れないが、今日は重大な発表がある――我らが大隊長殿、マキナは今日付けで大隊長を下りることとなった。彼はこれから別の任務に当たって貰うことになるので、彼の負担について配慮した結果だ。
――……だからここで、新しい大隊長を発表するわけだが……どうかしたかな、君」
エズラの言葉につられて、食堂中の誰もがその視線の先を見た――ようだった。俺もつられてその先を見ながら、まだ全く状況が呑み込めていない。マキナが大隊長を下りる?あいつの代わりが誰かいるか?てか、なんで他の奴等が勘づいて――と言うところで、昨日俺が出征しなかったことを思い出す。昨日、何かあったのだ。
エズラの視線の先に居るのはアカルだった。総員着席の中一人だけ立って、エズラを殺しそうな目で睨め付けている。アカルは聞いたこともないような苛立った声で、何考えてやがると言った。大きな声ではなかったが、水を打ったように静かな室内には良く響いた。
「何か気に入らないことが?」
エズラはアカルに訊ねたが、アカルはエズラを睨み付けるだけでもう何も言わなかった。荒々しい足取りでアカルが食堂を出ていくまで、誰も一言も発さなかった。蝶番の弾け飛びそうな音で扉が閉まった後、示し会わせたようなタイミングでエズラが話を再開する。
「――彼の指揮ぶりは昨日、みな見てくれたことと思う。中々良い結果だったと思うよ。諸君も同じことを感じてくれていると思う……さて、そろそろ紹介しようか。――西園寺君。立って」
エズラの言葉に、俺は耳を疑った。…なんだって?西園寺、ってそれは…――すぐにわかるよ、と言う誰かの言葉が耳元で蘇って――……
昨日その言葉を俺に向けて発したあいつが席を立った。エズラの側に座っていたらしい――そいつはただ一言。食堂中をぐるりと見回して、その全ての視線が自分に集まっていることに満足したふうに笑って――ただ一言。
西園寺クロエは、楽しい戦争にしましょうと言った。