朝降りだした雨は、昼までに豪雨になった。目を開けていられないくらいの、叩き付けるような雨。俺は軍服の上に合羽を被ると、双眼鏡を合羽の中に押し込んで宿舎の外へ出た。


ぬかるむ地面に足跡を残しながら、俺が向かうのはつい先日行った展望台だった。この天候じゃ見張れるものも見張れないだろうと思いながら、これも仕事かと嘆息する。手袋を濡らしながら展望台の梯子を登りきると、先客がいた。後ろ姿だが、背格好から判断するとクロエのようだった。まあ、今日の見張りも俺とクロエのペアだし。俺は振り返らないそいつに声を掛けた。



「よぉ、早いな――……?」

言い終えるよりも早く相手が振り返って、俺は言い淀んだ。つまりそれは、クロエではなかった。
話したこともなければ向こうは俺のことも全く知らない。しかし俺はその人をよく知っている。

クロエと同じ後ろ姿をしたその人は、――……西園寺コクト閣下は不思議そうに瞬きした。



「…すいません閣下。人違いでつい、失礼な口を利きまして……」
「構わないよ。私が勝手にここに邪魔しているのを、先に詫びるべきだし」
「いや、そんな……」
「この一帯を見渡してみたくてね。暫く邪魔したいが、良いか?」
「………勿論です」


断れるわけがないだろうが。人の悪い。俺は内心溜め息を吐きながら、半ばやけくそで閣下の隣に腰を下ろした。こうなったら早く帰って頂かなければ、と覚悟を決める。閣下とクロエを鉢合わせさせる訳にはいかないから。

――とは思ったものの、うまく口火を切れず俺は焦った。すると、意外なところから助け船が来た。


「君、名前は」


ハッとして隣を見ると、いつの間にか閣下は景色から俺へと視線を移している。

「…番号ですか、通称ですか」
「ああ……#4は名前を持たないんだったな。済まない。通称は?」
「……ユーゴです」


閣下に悪気はなかったのだろうが、俺は嫌な気分になった。別に今更、道具であることに不満を覚えはしないけど、どうも、差別化された気がして。


俺たちは名前を貰えない。

人間なら一般的に、生まれたときから誰でも持っているそれを、俺たちは授けてもらうことができない。
なぜなら、管理するには番号の方が便利だし、乳幼児期から管理される俺たち#4には、名付けてくれる親がそもそもないからだ。
しかし、番号は管理するには便利だが、実戦で使うのには不便だ。人間は無意味な数の羅列を覚えることは不得意だから、そこでは名前の方がいい。

俺たちは本格的な実戦演習の始まる10歳の時に、考えた名前を登録する。
それで、俺が登録した名前がユーゴだった。名字はない。必要ないから。



「ユーゴ?……君が?」
「え、何……」

閣下の意外な反応に思わず敬語が取れて、俺はハッと口を押さえた。冷や汗をかいたが、閣下は俺を咎めるでもなく、驚いた顔でじっと眺めている。驚いた顔もどこか、クロエに似ていた。

暫く沈黙があって、それから閣下は親しみを込めた笑みを俺へ向けた。


「…君のことは、エズラから聞いている。私のことは聞いているか?」
「いえ、…全く」
「そうか。友人甲斐のない奴だな――エズラとは、幼年学校からの付き合いでな」
「はあ……」
「歳が近いのもあって、仲良くしていたんだが……ちょっと色々あって離れて、今回久々に会ったのだ。奴が会いたいと言うので、来てやった」


閣下は傲慢にさえ見える笑みを浮かべた。しかし俺を見る目には、どこか懐かしさが映っている。

「歳は」
「21です」
「もう、そんなになるか……あれからもう、十数年経つものなあ……」
「……『あれ』?」


あれ、と言った閣下の響きに、どこか苦いものがあったように聞こえて、俺は問い返した。
閣下はしまった、と言う風に表情を歪めると、それから苦笑を浮かべた。

「エズラの弟の事件のことは、聞いている?」
「事件?」

それどころか、弟がいたことすら初耳だ。


「聞いてないのか?…益々、俺の口から言って良いものか……」


閣下は苦笑のまま言い淀んだ。もし俺が閣下の立場だとしてもきっと、そうなっただろう。俺は、今一番エズラの近くにいるはずの人間だ。それなのに、十何年も側に居たのに教えてもらっていないと言うことはそれは――……良くない事件だ。



「…昔、ちょっと事件があってね、エズラの弟はその、被害者なんだよ……もう死んでる。それでエズラは荒れてね、事件を起こして、疎遠になっていた」
「…………」
「…俺から聞いたと言わないでくれると、助かるな」
「――ああ、はい」


頷いて返すと、閣下は申し訳なさそうに笑った。閣下に強張った笑みを返しながら、頭は閣下の言葉を咀嚼しようとしている。

エズラには弟がいて、とある事件で殺されている。――とある事件、って、なんだ?
閣下に訊ねたい気がしたが、それよりも、他にすべきことがあるだろう?


「……閣下はもう、エズラに会ったんですか?」
「いや、まだだが」
「何でしたら案内しますよ、今からでも」


今は閣下をここから遠ざけることが先決だ。閣下がクロエに会いに来た訳じゃないなら、わざわざ会わせることはない。

「……今から?見張りは、どうするんだ」
「見張りは二人一組なんです。もうすぐもう一人が来ますから、大丈夫ですよ」
「じゃあその一人が来たら、頼もうかな」
「…………」

…くそ、閣下の言う方が正論だ。俺は笑みを浮かべながら、内心冷や汗をかいた。これ以上追及したら怪しまれるだろうと、俺は頷いて返し話題を変える。

……そう言えば、訊いてみたいことがある。俺は自然を装って訊ねた。


「閣下――ご兄弟は、いらっしゃるんでしたっけ?」


公式発表では閣下は一人っ子となっているが、もし本人に聞いたらどうだろうと気になった。惚けられたらそれはそれでいい。でもできるなら、閣下がクロエを覚えてくれていたらいいと――……俺は、閣下を見つめた。



「……兄弟、か」

閣下は苦り切った笑みと共に息を吐いた。焦れったいくらいの間があって、閣下が俺の方を見る――その目にはどこか諦めたような、それでいて懐かしそうな色があった。

「弟が居たんだけどね。死んだよ」
「――死んだ?」
「もうそれも、十何年も前だよ。…もう、昔のことだ」
「…………」


…どういうことなのかよく、判らなかった。閣下の弟――……クロエが死んでいると言うなら、俺の側にいるあれは一体誰なんだ?
閣下は苦い笑みのまま続ける。


「…弟は、殺されたんだ。でも俺はもう許そうと思う――彼奴がみんな、悪い訳じゃない。不幸が積み重なったんだと思う――思いたい」
「…………」
「だから――兄弟はいないんだ…君には関係なかったね。済まない」

閣下の言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。…弟のことをもう、過去のことと乗り越えようとしているのだ。
俺にはどうすべきなのか判らなかった。誤解を解きたいような気もしたが、…このままの方がいいのかもしれない。閣下がどうしてそんな誤解をしているのかは判らないが、それならクロエに会うこともないだろう。


「……俺はもう行くよ。邪魔して悪かったね」
「閣下――」
「エズラに会ってくるよ。場所は何とでもなるから、君はこのままでいい」

閣下は話は終わったとばかりに腰を上げた。こうなることを望んで会話していたと言うのに、何故か俺の胸には焦燥感があった。……何か訊かねばならぬことが、それも色々あるような――……

「閣下……あの、」

閣下が梯子に足を掛けた体勢のまま、顔を上げた。けぶる雨の中、二人。妙なデジャヴ。閣下と言う肩書きを取り払って彼を眺めると、彼は驚くほどクロエに似ていた。

「弟さんのこと、どう思ってたんですか」
「…………」

彼は驚いたように目を見開いた。少し考え込むような表情をした彼が、暫くして再び苦い笑みを浮かべた。…下がった眉が妙に痛々しかった。



「苦手だったけど、嫌いではなかったな――でも、俺は彼奴が死んだって聞いて、犯人を殺したいほど憎みながら…ホッとしたよ。俺は彼奴が怖かった。俺のことを殺したいほど憎んでただろう彼奴が怖くて、いつ俺を殺しに来るだろうかって怖くて……」


それだけ言うと、閣下は今度こそ梯子を下り始めた。宿舎に戻っていく背中を見送りながら、俺は思う。

エズラの弟が死んで、クロエが死んで、俺がエズラに出会った。

俺がエズラに出会ったのはとりあえず置いておくとして、前者の二つの事件が十数年前に固まっているのは一体何だろう――……知らないことが、多すぎる。俺は雨の中頭を抱えた。