唇の端から血が一筋滴って、俺の剥き出しの腹の上に落ちた。すると忘れていた痛みがふいにぶり返したが、それはもう痛みとは違うものになっていた。
それはむしろ痒みに似ていた。
疼くような。
もっと刺激を求める時のあれ…―――麻痺している?冷静になればこれ以上ない。これ以上成らば死んでしまう?―――それは、いけない。何にもならない。
自分でも興醒めに思う言葉を絞り出した。
           、
「旦那。それ以上は死んらうよ…」

ありゃ、いけない。どうやら俺は、自分が思うよりもよっぽど、キているらしかった。視界はイビツに歪んでいるけど、ちょっと目を閉じれば、どこかにすうーっと飛んでいってしまいそうだ。手も指先からどんどん冷えきっていくし、頭は上がらないし、呂律もロクに回らない。これは―――ヤバいな?やだ、これは死んじゃうかもまじで。

「ちょ、ちょ――ッと、旦那…だめだめ。もう、ら…だめ」
「……うん?」
「だめだって…!もっとクールになって、ちょっと落ち着いて、ホント、それは…」

死ぬから。

俺はベッドに横たえられた体勢のまま、なんとか、肘から下を持ち上げた。
冷えきった指先は、持ち上げる側から落ちていきそうだった。俺の指先はこんなに重かっただろうか。まるで石でできているみたい。

「お願いだから、ちょっと、…あの。やめて?」

わかってるでしょう?必死に訴える俺の顔が、旦那の目の中に映っていた。紙みたいに真っ白、血の気がない。
俺に覆い被さる旦那の顔も、相変わらずに白かった。蝋人形か、サカナの腹みたいな白。そう言ったら怒るんだろうか?あまりいい色でもないだろう。

冷えた掌で押しやると、思いの外あっさりとその顔は離れていった。有難いことなのだけど、みすみす獲物を逃すなんてらしくないと、矛盾したことをも思う。
旦那はおまけに俺の上からも退いてくれると、俺を遥か頭上から見下ろした。なんだか―――変な感じだ。看取られてでもいるみたい。起こしてくれと差し出した手を、旦那は引き起こしてはくれなかった。
その代わりに、ぼそりと呟く。

「……手当てをしましょう」
「いいよ別に」
「いいえ」

これがついさっきまで、俺を殺そうとしていた男の言葉だろうか。いや、まあ―――けしかけたのは俺なんだけど。『ねえ俺のこと…』旦那にならアリかなって?いややっぱりなかったわ。
ごめんね!

「リュウノスケ、これを」
「…何これ」
「栄養ドリンクみたいなものです」
「飲んだらSAN値が下がるとか」
「毒なんて入ってませんよ」
「…不味そう?」
「この国では『良薬口に苦し』と言うのでしょう」
「おいしくて効くのが良い薬でしょ?」
「それもそうかもしれません」
「あはは――」

…まるでコップの中には闇が入っているみたいだった。でも光に翳すと、それがごく濃い赤色をしているのに俺は気付いた。枯草のような匂いがする。何が入っているかなんて、知れたものではなかったけど…

「……うわあ。これはひどいね」
「そうですか?」
「こんな不味いの初めて。これで効かなきゃ、詐欺だね」
「効きますよ」
「旦那が言うなら、そうなんでしょうね…」

俺は旦那のことを、無為『には』殺されないだろうと言うくらいには信頼していた。全面的に信頼を置くには、旦那には足らない部分が多すぎる。
そもそも旦那はジルドレであってジルドレでないのだから、真実には素性も知れないクリーチャーだ。旦那がジルドレだと分かってから俺も、ジルドレのことを多少は調べた。
ジルドレがクトゥルフを信奉するなんてのはコズミックホラー的二次創作で。つまりこ、れ、はファンタジーの住人だ。ファンタジーを真実に信奉するのはただの馬鹿だ。オナニーだハッピータイムだ。
仕損じた紙を破るみたいに、いつ気紛れに放り出されるか知れたもんじゃないよ……