―――バターとジャムをいっぱい塗った、焼きたてのパン!


工房の作業台はいつもと違って、食卓の呈をしていた。
まっしろなテーブルクロス。割れてないお皿。ティーコゼーを被せたティーポットだろうもの。ティーカップがふたぁつ。新鮮なミルクといちごジャムのびん。

椅子が一対。

「旦那ァ、ナイスタイミングだよ!」

椅子ひとつを占めて、声を挙げたのはジル・ドレの主たる雨生龍之介である。

「今呼びに行こうと思ってたんだ」
「はあ」
「まあ、座ってよ」
「はあ」

ジル・ドレはずるずると歩いて、食卓へと歩み寄った。
近付くにつれて、だんだんとやさしいパンの匂いと、ミルクの匂いに鼻腔を侵される。
鼻を覆うのはどこか違うような気がして、息をひそめて。空気そのものに阻害されているような心地が、まるで断頭台を登るようだと、誰かが囁くのをジル・ドレは聞いていた。
ジャンヌ、プレラーティ、わたし―――…誰だろう?

「座って」
「はい」

命令を受ける。龍之介の顔に誰かの顔が重なって、ジル・ドレは座りながら瞬きした。しかし謎の正体は常世の向こう。

ジル・ドレはジャムのたっぷり乗ったパンを、爪先で持ち上げてみた。すると真っ赤な固まりが、ぼた、ぼた、と皿の上に落ちて鮮血のように指に跳ねた。指先のジャムを真顔に舐めとりかけたところで、龍之介が慌てて遮った。

「待って旦那、食べないで!」
「え?」
「食べたら、死んじゃうかも。」

ジル・ドレは眼前に指を掲げたまま首を捻る。龍之介はと言えば至って真面目な顔で。「…私が穢れていると言いましても…吸血鬼がニンニクを恐れるように、パンを恐れたりはしませんよ」

龍之介は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべ、疑問符を散らした。

「は?ボケ?」
「はい?」
「いやいや。鼻詰まってるの?」
「…?」
「わ、やだ。移さないで」
「私は風邪を引きません…むむ、しかし。鼻は馬鹿になっているやも」

ジル・ドレが長い鉤爪で自分の鼻を引っ張ると、迷惑そうに表情を歪めていた龍之介がぱっと笑った。

「あはは。ならいいや」
「それで、この指はどうしたらいいのです?神を信じる貴方が清めてくださいますか?」
「やだ、それセクハラ?テーブルクロスで拭いていいよ」
「承知しました主よ」テーブルクロスに真っ赤な染み。

ジル・ドレがそれを眺めている間に、龍之介は食卓の上のジャムのびんを取り上げた。それからジル・ドレの視線をすくって笑って、金色の蓋を回して開けた。食卓に投げだした蓋の裏にも、ジャムがたっぷり付着している。
龍之介は転がしてあったスプーンで中身をすくった。掻き回す度に、ねちゃねちゃと不快な音を立てた。

最後に龍之介は、びんを自分のパンの上にあけるようにひっくり返した。するとその動作に少し遅れて、ジャムがびんの縁を伝い落ちてパンを汚す。
ジャムはパンから跳ね返って、テーブルクロスを染めて、龍之介の服を汚して、ジル・ドレへも飛び火した。
赤く濡れた指先をテーブルクロスで拭って、龍之介は笑顔に首を傾げて見せた。「どう?」

ここまでくれば、さすがにジル・ドレにもからくりがわかっている。

ジャムはジャムでも、食べられないジャムってなあに?


「また随分と、かわいい作品を創りましたね」
「うん。匂いでわかると思ったのに」
「パンとミルクなんて、なつかしい匂いを嗅いだせいで少々惑わされました」
「少々?」
「すっかり。」
「よろしい」

龍之介はにっこり笑って、ジル・ドレの手元を指差した。
そこには勿論パンがあって。真っ赤な液体を滴らせていた。

「召し上がれ?」
「死んでしまいますよ?」
「…食べたふりして」

龍之介は小声に囁いた。ジル・ドレは了解、とばかりに瞬きして、真っ赤なパンを持ち上げた。パンを口から離したまま、かちりと歯を鳴らした。「おいしいですよ。リュウノスケの料理は素晴らしいですね」
「あはは、ありがとう。じゃあ次もがんばっちゃおうかなあ?――ねえあなた、次は何が食べたい?」
「そうですねえ、リュウノスケの料理は何でもおいしいですから」
「肉料理限定で!焼肉。腸詰め。ホルモン焼。モツ鍋。目玉焼き」
「ジャムは肉料理ではありませんでしたよ?」
「たまたまね!」

龍之介もパンを持ち上げて、ジェスチャーだけでさくりとかじった。
ジル・ドレが極めて優雅な仕草で空のティーカップからお茶を飲んでみせると、龍之介もそれに習う。しばらくは会話もなく、カチャカチャと食器の擦れる音だけがした。

龍之介がティーコゼーを取り除くと、そこには目玉がぎっしりお湯に浸って白濁していた。二人は手を叩いて笑った。

「…実はね、この食卓を見た時、貴方が狂ってしまったと思いましたよ」
「どうして?」
「あまりにも、『まとも』に見えましたから」
「あはは。まともなのが、狂ってるなんて可笑しいね」

見えない紅茶を啜りながら、龍之介がもっともなことを言った。
20ウン歳とウン百歳の狂った朝食はままごとの呈で。
血と脳味噌の真っ赤なペーストはひどいにおいがした!

脳味噌をくり貫かれた子どもたち。血を抜かれて青白い顔をしている。
眼窩から白濁とした液を滴らせている子どももいて、乱れた格好の龍之介にジル・ドレは全てを察した。

「妬けますね」
「ホント?」
「ええ。この目玉が邪魔だなと思うくらいには」
「嬉しいなあ。じゃあ、ちょうだいよ」
「駄目です。貴方の顔が見れなくなりますからね」
「…うまいんだから、もう……」

ごつん、と龍之介は食卓に頬を付いた。

「ごめんなさい」
「何がです?」
「浮気したから」
「もうしませんか?」
「いや、します」
「それでこそ」

ジル・ドレはにこりと笑んで、指先をジャムに浸した。伸ばした手が龍之介に届くまでに、ぽた、ぽた、とまた染みを作る。
その指先は龍之介の唇に触れて、そして紅を引くようになぞった。真っ赤な唇を、龍之介はさも嬉しそうに歪めた。

「誠意を見せてもいい?」
「どうやって?」
「欲しいものは?」
「一つを除いて、特には」
「自惚れてもいい?」
「どうぞ」

龍之介が立ち上がると、勢い余って椅子が後ろに倒れた。龍之介は片方の手は食卓に付いて、背伸びして唇を触れさせた。龍之介はジル・ドレの、目を閉じないところが好きだ。

「…いつか俺の、心臓に一番近い指もらって」
「喜んで」