「……もしもし…あ、七里?
……うん。決めたよ部屋。今から片付け……え?手伝い?いいよ。悪いし」

要らない。

「大して物もないしさ。前からちょっとずつ片付けてたし……うん、ありがとう、ごめんな」

来ないでくれ。

「本当に大丈夫だから、押し掛けたりしないでくれよ?仕事明けなんだから、しっかり休んでくれ。」

来るな。

「じゃ、また」


俺と兄さんのテリトリーを、汚さないでくれ。



***


…俺って、かわいそうなやつ。

仁介はテーブルの上の、ちょっとばかししかない荷物を見下ろして苦笑した。

本が数冊と、服がちょっと。

引っ越しに際して仁介が必要だと思ったのは、たったそれだけだった。

あとはもう、何も要らない。読み皺の付いた料理本も、壁に掛けていたポスターも、教科書も、漫画も、必要なものだとは思えなかった。
部屋の隅にはその要らない物が、持っていこうと思う物よりずっとずっとたくさん、燃えるごみと燃えないごみに分けて段ボールに詰めてあった。今思えば、どうして買ったんだろうと思う物ばかり。


食器棚にも、食器は一つもない。引き出しにはフォークの一本もない。勿論洗い桶にも乾かしかけの食器などなく、汚れた皿がシンクに積んであったりしない。


今日は七里が夕食に付き合ってくれるらしい、と電話で聞いた。
ただ、ありがたいな、と思う。一人きりの外食にもそろそろ飽きてきたところだった。


そう、食器はもう全て、捨ててしまった。どうしたらいいか解らなかったから、リサイクルショップに二束三文で引き取ってもらった。今家には、コップの一個もない。冷蔵庫には飲みかけのペットボトルがたくさん。牛乳の紙パックも口飲みしてるのがばれたら、行儀悪いって怒られるかな。


誰に?


「…………」

仁介は大きく頭を振ると、ぴしゃっと自分の頬を両手で叩いた。自分のほんの少しの荷物を鞄に押し込んで、冷蔵庫から水のペットボトルを出して飲んだ。きん、と冷えた水が、喉を下がっていくのを生々しく感じる。

空になったペットボトルをゴミ箱に投げ込んで、顔をあげると、空になった部屋。

何もない。

入居した時からあった、備え付けのテーブルとソファと食器棚。
その他は何もなかった。全く生活感のない部屋に戸惑う。感じるテジャヴは、初めて来た時のものだろう。

空の部屋に、うず高く積まれた段ボール。空の食器棚。無人のソファ。
一つ違うところを挙げるなら、……あの人が、いない。俺だけのライオンが――……



仁介はまた大きく頭を振ると、のろのろと、その部屋を見た。正確にはその部屋に面する扉。
その部屋に最後に入ったのは一体いつだったろう。
少なくとも気持ちは、大分昔であるように感じる。その部屋に入っていく大きな背中を見たのすら、大分昔であったように感じる……


片付けていないのはもう、その部屋だけだった。他はもう全部片付け、掃除機を掛け、雑巾掛けをし、シンクもコンロもぴかぴかに磨きあげたと言うのに――……その部屋だけは、全くの手付かずだった。


こわい。


いやだいやだいやだいやだこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい!!!!!!


無人の部屋だと気付いてしまうのが怖い。埃の積もった部屋に絶望するのが怖い。降り積もった思い出の色々を、自分で消すのが怖い!
縛られていたい。立ち上がるのが億劫なくらいに重い重い鎖の先が、もう千切れているなんて、そんなこと気付かなくてもいい。あのひとの名残の無人の部屋に支配されていたい。俺の全てを占めていて欲しい。そのためなら、なんだって――……?


気持ちとは裏腹に、手はいつの間にかドアノブを捻っていた。じっとり汗ばんだ掌に貼り付く、温度のないそれ。
俺に与え続けてきた圧迫感に反比例するように、呆気なく扉は開いた。心臓は高鳴って、額にはうっすら汗が滲んでいる。抗議するようなドアの軋む音。初めに感じたのは、匂いだった。


明かりの灯らない部屋。カーテンはきっちり閉められていて、足元を見るのが精一杯な暗い部屋。
だからなのか、嗅覚は嫌に鮮明だった。恍惚とも哀しみとも取れない溜め息が自分から溢れるのを、仁介は感じた。
それは、焦がれて焦がれて、焦がれ続けて止まなかった匂いだった。香水だとかなんだとか、そんな簡単なものじゃない。あのひとだけが発することが出来た、俺を惹き付けて止まない匂いだ。


背徳的な気持ちで胸を満たしたまま、震える指で蛍光灯のスイッチを手探りに入れると、キン、と特有の甲高い音を立てて蛍光灯が点灯した。

それは彼の人格に似合わないくらい、すっきりした部屋だった。ベッドと机と、クローゼットがあるのみ。机の上の教科書はきちんと並べられ、無駄なものは何も転がされてやしない。

ベッド。

「―――!!??」

ふと頭に浮かんできた劣情に仁介は酷く混乱した。首が千切れそうなくらい頭を振って、部屋から飛び出す。
そしてもう一度部屋に戻ってきた時、仁介は段ボール箱の束を手にしていた。

これまでの片付けで慣れ、手早く段ボール箱を幾つか拵えた仁介は、手始めにクローゼットを開けた。
そして大して見もせず、綺麗に畳まれた服をどんどん段ボール箱に押し込んでいく。服にわりと無頓着な俺と比べ、流行に敏感だった彼の服を詰め終えた時、服だけで箱がこんなに要ったかと驚く。


次は机だ。教科書を段ボールの底に敷いて、その上から筆記具を流し込む。他にも参考書だとか雑誌だとか、苦笑してしまうような本だとか――……沢山あった。俺と違って本当に、色んな物を持っている人だった。



――……それを見つけたのは、本当に偶然だった。

沢山ある本の中に一冊、嫌に古びた本。何の気なしに手に取って、どきりとした。
それは絵本だった。裏返してみると、幼い筆跡で書かれた名前。


「人魚姫……?」


その懐かしさに、ぱらりとページを捲った。


王子に恋をし、側にいるため何もかもを捨てた人魚姫。
抗議する声すら喪った彼女から王子をかっさらった人間の女。
王子が恨めしくて恨めしくてたまらないのに、それでも、いとしい。
そして人魚を捨てた人魚姫は、そんな王子のために命まで捨ててしまうのだ――……


「……ぁ?」

読み終えて、最後のページ。ふと違和感を覚えた。

大抵の絵本は話が終わったあとも、絵を汚さないために最後に白紙のページがもう1ページ付いている。しかしこの絵本にはそれがなかった。

そう言う仕様なのか……?しかしページを指先で触ってみると、それは糊でも貼ったようにぼこぼこしていた。

仁介は思い切ってページの角を爪先で摘まむと、慎重に引っ張ってみる。…ぱりっ、小さな音。違和感は確信に変わった。

慎重に、ゆっくりと故意に貼り付けられたページを剥がしていく。

一体何が隠されているのだろうと、期待に胸が高鳴った。
絵本に落ちそうになった汗を手の甲で拭い、作業を再開する。
かなり前に貼られたらしいそのページは、大分しつこかった。


――……しかし。

「………はは…っ」

作業を完遂した仁介を、待ち受けていたのは、……絶望だった。
白紙のページに、ぽたりと汗とは違う一滴。幼いあのひとの筆跡が、滴に僅かに滲んだ。

「……ひどいよ」


それは、相合い傘だった。
じんすけと、ときや。
きっと思わず書いてしまって、ページを破く訳にもいかないと聡い彼が糊で貼り合わせ隠した秘密。
それとも、おまじないみたいなものだったのかもしれない。…どうだったのかは、もう解りはしないけれど――……


仁介は鴇也の部屋の真ん中、古びた絵本をぎゅっと抱き締めた。俺がこうしたかったのは、こんな無機物とじゃない。虚しさに胸を締め付けられながらも、絵本を手放すことはできなかった。

十年共に過ごして、俺が手に入れられたのは、あのひとのほんのひとかけら。鬱陶しいくらいに手に入れていたつもりだった愛も、灰になって消えてしまった。

もう、これだけ。

主のない部屋と、嘘っぱちの骨壷。死体はないから行方不明と片付けられて、墓にも入れやしない。存在そのものを、消し去ったのは俺だ。
あんなにも俺の全てだったあのひとは、もうこの一部屋分しか存在しない。

「――――――」

仁介は声に成らない悲鳴を上げた。気が狂いそうだった。俺は、何も乗り越えられてやしなかったんだ。こんなにも、辛い。こんなにも、愛している。こんなにも、声が聞きたい。手に触れたい。あの優しい笑みを向けられたい――……



罰だ。
これは罰だと誰かが笑う。

あの日の幼さの罰だと言う。重すぎる愛に堪えきれず、逃げ出した罰だと言う。
辛い愛を、違う愛で上書きしようとした罰だと、


「――そうさ」


絵本を抱き締めたまま、仁介はふらふらと立ち上がった。さっき片付けた段ボールに手を突っ込んで、ほとんど錆びたカッターナイフを取り出す。
そして仁介は四つん這いになって床に絵本を広げると……――幼子が画用紙にクレヨンを塗りたくるような気楽さで、絵本をびりびりに引き裂いた。


美しい色彩が、崩れて、
文字が、離れ離れになって、
人魚姫の足が、千切れて、
女の、喉が裂けて、
王子の、首が飛んで、
相合い傘がばらばらに別れた。