自分の顔が嫌いだった。
から、鏡が嫌いだった。夜の窓が嫌いだった。消したテレビが嫌いで、黒い車が嫌いで、写真が嫌いで、見つめ合うのが苦手だった。
鏡を避けて、夜はカーテンを閉めて、テレビはつけっぱなしで、黒い車には近寄らず、写真には写らず、キスする時は目を伏せた。
自分でも異常だと判っている、解っている。それでも駄目なのだ。

『はっきり言うけどさ、それはもうやばいよ』
一生それと付き合ってくつもり?彼奴は皮肉な笑みを浮かべた――俺が割った、皿の破片。その掌から血が一筋伝う。

…謝りたかった。ごめん、こんな性分でごめん。怪我させてごめん。そんな顔させて、ごめん。しかし実際には、俺はただ俯いていることしかできなかった。呆れ返った、彼奴の溜め息。ふとその気配が消えて、暫く後に再び現れる。硝子の破片を片付けながら、彼奴は笑った。

『俺、えつっさんと心中する気ないから』



「すおーくんどうしたのそれ!?」
「あー…ちょっと、うっかり。」
「痛くねえの?」
「まあそんなに。軽いし」
「の割りにゃア包帯ぐるぐるじゃん。病院行った?」
「……行ってない」
『行けよ!!!!!』

翌日、学校。どんなことがあっても、つつがなく送られる学校生活はある種救いでもあるな、と悦史は思った。机に突っ伏して視線だけ上げて、クラスメイトに囲まれる蘇芳を見ている。
朝登校してきてから、蘇芳はずっとクラスの注目の的だった。もちろんそれは、右掌から手首に掛けて巻かれた、痛々しい包帯のせい。そんなのをしてきたクラスメイトが居たら只でさえ注目を浴びると言うのに、その上蘇芳は人気者なのだ。人当たりが良くてスポーツが出来て、勉強もそこそこ出来て委員会なんかにも真面目で、おまけにユーモアのセンスがあって顔も悪くない。これでもてない方がおかしい…顔も頭も俺の方がいいけど、性格なんかで蘇芳の方がもててんじゃねえの――……ふと頭を過った少女の顔を、悦史は首を振って追い払った。関係ない。俺には。

「ねーすおーくん、病院着いてってあげようか」
「はあー?なんじゃそりゃ。何企んでるの」
「蘇芳付き合い悪いからさ、病院行って帰りに飯食い行こうぜ」
「いやいやいやいや。お前ら部活は」
「こう言う時サボるために真面目に部活いってんの」
「部活いけよ!!!!!」

クラスの中心でどっと笑いが弾けるのを、悦史はただぼうっと見ていた。その輪に入りたいとは思わない――大人数に囲まれるのは嫌いだ。彼奴ら、なんだかんだ言って俺の顔しか見てないし。俺がちょっと外れたことを言うと、大袈裟にびっくりした顔をする。あまつさえ、
『浦戸くんって王子様みたいな顔してるのに、そんなこと言うんだね』
なんて――知ったこっちゃねえんだよクソ共が。好きでこんな顔してんじゃねえよ。…なんて言っても、今は嫉妬にしか聞こえないか。

「で、どうするのすおーくん」
「いやいや、病院とかめんど」
「って行かないだろうから引きずってってやるって言ってんだよ」
「…お前ら面白がってるだろ」
『うん』
「うーわあああーめんどくせー…」
「で?」
「あー…っと」

悦史に背を向けて話していた蘇芳が、急に悦史の方を振り返った。突然の行動に、悦史ばかりかクラス中が驚く――……

「ちょっと行ってきてもいいかなあ」
いつもと変わらない笑顔で蘇芳は首を傾げた。驚愕が、蘇芳がいつも通りであると言う安堵に代わり、結局、怒りに変わった。返事をするのも不愉快で、悦史は席を立つ。クラス中が、悦史が去っていくのをじっと見守っていた……
蘇芳は追ってこなかった。



保健室。調子が悪いと現れた悦史を、保険医は快く受け入れてくれた。悦史が保健室の常連である上、生まれついての病気じみた色白のためいつも不健康に見えるせいだろう、

俺がクラスを出たあと、クラスで一体どんな会話が繰り広げられたのかと思うと胃が痛かった。俺と蘇芳は全然タイプが違うもんだから、俺達が仲良いのは不思議だと思ってるやつらも結構いるみたいだし……蘇芳は、行くんだろうか。嫌だ、と思った。
嫌なんてもんじゃない。嫌よりももっときつい、酷い、汚い言葉が欲しいくらいに嫌だった。俺以外の奴が蘇芳と喋るのは嫌だ。俺以外の奴が蘇芳に触れるのは嫌だ。俺以外の奴が、蘇芳に笑いかけられるのは、嫌だ。

寝転がったまま窓の外へ視線を向ける。人気のない中庭、僅かに残る緑。暖かそうな陽射し――蘇芳のお陰で、俺が手に入れたもの。俺はあの日溜まりに飛び込むことができるはずなのだ。暗闇から脱け出して、暖かい陽射しを浴びることができるのだ――ふと、窓ガラスに自分の顔が映る。
綺麗な赤毛。女性的な相貌。よく、…似ていた。窓ガラスを叩き割りたい衝動を抑えて、悦史はベッドに潜り込んだ。自分の中にあるこの嫉妬の感情も、あの女から来たものなのだろうかと思うと死にたくなった。



『悦史、私の可愛い悦史。私の一人娘。私がお腹を痛めて産んだ、可愛い娘。私にそっくりの髪、私にそっくりの瞳。私に似て美しくなるでしょう』

『お人形のように可愛い悦史。私の娘。私のお人形。私の傀儡。私の復讐のための道具。悦史、美しくおなり。賢くおなり。狡猾で残酷で獰猛で、それゆえに美しい獣に。殺しなさい悦史。何のために私がお前を産んでやったと言うのです。浦戸も大江も知ったことか。全て灰塵と返れば良い――……』

首を狩れとハートの女王。命令するしか能のない、権力だけの非力な女。俺が殺したいのは、ずっとあんただった。俺がそっくりの女。俺のオリジナル。かつて、俺の支配者であった、鏡の中の女。年を重ねる度、俺はよりあの女に似ていく。朧気な輪郭が鮮明になっていく。

あんたはもう死んだじゃないか。もう、追い掛けてこないでくれよ――……こわいよ、


『怖い?私のことが?私はもう死んでいると言うのに?ああ、憎い。憎らしい私の息子。あの男の血の交じった不浄。親殺しの化物。化物のくせに人並みの幸せをなんて、烏滸がましい。死ねばいいのだ、お前など。裏切り者。親不孝者。私利私欲の化物め。…汚ならしい。そんな首、跳ねておしまい!』
首を狩れ!



誰かの悲鳴で、悦史はベッドから飛び起きた。マットレスの柔らかさに、自分が夢から目覚められたことに安堵する。酷く汗をかいていた。それと、涙も。激しく脈打つ胸を押さえて、首が繋がっているのを触れて確認して、やっとその悲鳴が、自分のものだと気付いた。

保健室には悦史以外に誰もいないようだった。保険医も他の生徒も、勿論蘇芳も。目が覚めたら蘇芳がいることを期待していた自分の幼稚さに苛立って、蘇芳のつれなさに泣きたくなる。時計が指すのは10時とすこし。授業中だから蘇芳が来れるわけないと理解しながらも、それでも悲しい女々しさ。携帯を確認してみたが、メールの一通も来ていない。携帯を握り潰したい衝動をなんとか抑えた。

……帰ろう。教室にも戻れないし、今日はもう蘇芳にあいたくない。
家に帰ったら部屋に閉じ籠もろう。気持ちが落ち着くまでは一人でいよう。場合によっちゃ、暫く学校を休んだって構わない。何のための成績優秀だ!

悦史は携帯と眼鏡をズボンのポケットに捩じ込むと、軽い足取りで保健室を出た。みな勉強している中、一人帰る優越感。定期も何もかも教室だけど、線路沿いを歩けばそのうち帰れるだろう。妙に清々しい気持ちだった。昇降口で靴を引っ掻けて、悦史は悠々と正門を出た。守衛ににこやかに挨拶をするのも忘れない。

「さようなら」
「帰るの?」
「調子が悪いので、早退します」
「お大事に。えつっさん」
「あり……」

えっ?

「俺も帰ろうかな」
門に凭れる蘇芳が、包帯を巻いた手をひらりと振った。呆然とする悦史に、体育体育、とぶかぶかジャージの蘇芳が笑う。
帰ろうかと肩を抱いた蘇芳の手を、悦史はぱちんと振り払った。蘇芳が一瞬傷付いた顔をして、それから苦笑。

「ごめんな。流石の俺も体育は抜け出せねえわ。携帯は家に忘れるしさーもー」
散々。蘇芳は大袈裟に肩をすくめた。あんなことがあったと言うのに蘇芳はやっぱりいつも通りで、なんだか悲しかった。悦史は俯いて、唇を噛み締める。気分は一気に下降していった。

「なあ、えつっさん。おれ、ひどいこと言ってもいいかな」
はっと顔を上げた悦史に、蘇芳はにっと笑い掛けて、

「俺さ、やっぱえつっさんとは心中できないよ。他の誰とするとしても、えつっさんとは絶対、無理」
「…………」
「この意味、わかる?」


……意味?そんなもん、

「…ああ、わかったよ。よォく、わかった。お前だってただの男だったんだ。外面だけのただの人間。わかったわかった」
「………ちょっと待ってえつっさん。なんでそうなるの」
「うるせえよ気安く呼んでんじゃねえ!!!!!人間風情がよォ、俺に話し掛けていいわけあんのか!!!!!!!!」

悦史は親の仇でも見るように蘇芳をきつく睨み付けながら、しかし自分の中にまだ冷静な部分があることに気付いていた。その冷静な部分が、自分の中の子供じみた怯えに気付く。悦史は蘇芳を酷く恫喝しておきながら、しかし逃げるように蘇芳の横を擦り抜けようとした。しかし蘇芳は恫喝に竦み上がりながらも、悦史を逃がしはしなかった。
「待って」
「気安く触ってんじゃねえ!!!!!」
「…おちついて」
「だ、れが、落ち着いてねえって????ほっとけよ、うぜーんだよォ!!!!!!!!!!!」
腕を掴む蘇芳の手を、引き剥がそうと悦史は暴れた。しかしどんなに暴れても殴っても引っ掻いても、蘇芳は放してはくれなかった。それどころか悦史は結局、無理矢理に蘇芳の腕の中に閉じ込められてしまう。
暴れ続けていた悦史も、蘇芳の包帯に血が滲んでいるのに気付いてしまうと、もう抵抗できなかった。それ以前に、本気で暴れてなどいなかったのだろう。本気で暴れたなら、悦史がただの人間の蘇芳を振り払えない訳がない。

「えつっさん、…悦史。いいんだよ俺のこと傷付けても。俺は悦史のものなんだから。悦史がしたいなら、悦史は俺にどんな酷いことしたっていい。でも、悦史は駄目。悦史は傷付いちゃ駄目なんだよ。だから俺は悦史と心中できない。前を向いて生きてほしい。悦史が許してくれるなら、俺も一緒に。俺悦史のこと大好きだからさ、自分から傷付こうとしてる悦史は、嫌だ。
……俺、酷いこと言ってるな」

蘇芳は自嘲するように笑うと、ぽんぽんと悦史の背を叩いた。

「俺は汚い人間だから、自己中心的だから、俺は勝手に悦史に理想を押し付けるよ。悦史は誰にも縛られず自分の好きなようにしあわせに生きる。俺が決めた、守らせるよ」
「…蘇芳は、」
「んー?」

悦史は恐る恐る、蘇芳の背に自らの手を回した。

「勝手だ」
「ん。勝手だよ」
「ばかやろう」
「悦史ばかだよ」
「俺のこと振り回すし、俺のこと嫌な気持ちにさせるし、そのくせ、俺の中から出ていかない」
「酷い男だなあ俺も」
「……く、そぉ…………ばかっ!ばかやろう!ばか!!」
「フヒヒ、サーセン……あだっ本気で殴らないで!気持ちよくなっちゃう!!!!!!」
「き!!!も!!!!い!!!!!」

気恥ずかしさだとか嬉しさだとか照れ隠しだとかがない交ぜになって息を切らせる悦史の、目元に蘇芳は口付けて。しかしやはり悦史は、その瞳に映る自分に目を背ける。
…いつかさ。蘇芳の言葉に、悦史は目を背けたまま頷く。

「テレビの雑音は消して、夜にカーテン開けて星を見て、黒い車でドライブして、笑顔で記念写真撮って、目を開けたままキスしよう。いつか」
「……………」
「俺、決めたから。決めたからには守らせる」
蘇芳くんは有言実行がモットーなので。鼻を鳴らして胸を張った蘇芳。それからにっと歯を剥き出して笑い、悦史の背をそっと撫でた。もう言葉はいらない。蘇芳の肩に頭を押し付け背を震わせる悦史を、蘇芳はただ抱いているだけで良かった。