「ランサー、ランサー!どこにいる!」
「―――!」

俺を眠りから覚ましたのは、聞き間違うべくもないあの声だった。

「は、はい!ここにおります!」そう声を張り上げると、暫しの沈黙。

「…早く来い!」「はい!今直ぐに参ります!」―――直ぐに、とは言ってもディルムッド。

布団を蹴って立ち上がった俺だったが、最初にしたのは鏡を覗き込むことだった。
そら、まあ。寝乱れた姿を顔を、主に見せることなぞ到底出来ぬ。主自身に失礼であろうとも思うし――俺自身が、見せたくないと言うことでもあった。
髪を後ろに撫で付けて靴を履くと、俺は部屋を出た。いつものように人影のない廊下を主の部屋へと駆け抜ける。

頭の奥には夢の残滓がこびりついていた。それはとても、悲しい夢で。非常な怒りの込み上げるような。
夢は昏い闇と血の赤をしていた。


キャスター。セイバー。―――聖杯戦争。深淵より這い出ル異形。ばらばらになった子供たち。凍土をも溶かすようなその血の滴りと。
明けないような夜。悲鳴を吸い込んだ夜の森…

衛宮邸も、それと同種の闇で満たされていた。血と硝煙の、戦争の匂いがした。―――聖杯戦争。魔術師と魔術師殺し。腕の中のか弱い心音。鼻腔を占める血の匂い。騎士と言う不自由な仕事。



俺は主の自室の前で足を止めた。部屋に入る前に、まずは深呼吸。
「…マスター。ランサーです」息を潜めて、扉を叩いた。
背筋がぴんと伸びる感覚。体の中に一本の棒が入ったような。俺をそうさせるのは、いつだって主一人。

「入れ」

主の返事は早かった。…お待たせしたか?やはり急ぐべきだったか?
「……はい」罵倒の声を覚悟して、扉を開け――…ああ。そんなことよりもっと。
恐ろしいことがあった…本当に。本当に。…本当に、

―――夢ならばどれだけ救われただろう?


「遅いぞ。何をしていた」
「申し訳ありません」
「謝れば許されるとでも思っているのか貴様は」
「申し訳ありません…」

主は俺をきつく睨み付けると、まあ良い、と吐き捨てるように言った。また申し訳ありません、と繰り返せば、主は鬱陶しいと言う。

「…ソラウ様は?」
「貴様が馴れ馴れしく呼ぶな!」
「はっ!…奥方様は」
「…………。先程出ていったきり戻らん」

主は苦々しく表情を歪め。しかし俺がいることを思い出したのか、ハッとしたように表情を消した。

「ランサー。そこの――水差しを」
「はい」
「飲ませろ」
「…はい」

扉の側に立ちっぱなしだった俺は、その言葉でやっと動くことを許された。恐る恐る、主の自室に踏み入れる。
ここに入るのは数えるほどだった。主は俺が嫌いで、俺が部屋に入るのを嫌った。だからこの部屋はいつだって物珍しい。だが、きょろきょろしなどしたら、何を言われるものだろう?

俺は、床を見て歩き――ベッドの側の、水差しを取り上げた。そこからでもベッドに水差しは届く。
「…主、お口を」主は屈辱的、と言う表情を浮かべ…渇きには勝てないのか、口を開いた。


ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが全てを失ったのはつい先日のことだ。
奪ったのはセイバーの主の、『魔術師殺し』衛宮切嗣。
培った魔術回路もプライドもずたずたに引き裂いて。主に残されたのは命だけだった。


「…もう良い」「はい」俺は水差しを、元の場所へと戻した。

しかし俺は、主の言った『もう良い』が、水のことなのか、それとも俺がここにいることまでなのか、測りあぐねて主を見下ろしていた。
その白い手に令呪はない。白い手に良く映えた、あの真っ赤な紋様。それは今あの女の手の甲にあった。新しい主。いや主は彼一人。

「…何を見ている?」
「いいえ」
「何が面白い」
「いいえ、」

どうだか、と主は白い頬で笑う。紙のように血の気がない。
主が全てを失って数日。主は急に落ち込んだようだった。――無理もない。そう言えばあの女はどこへ行ったのか。このような時、側にいるのが妻ではないのか。


主は、俺が、彼女を奪ったと――奪うと、思っている。
数千年も前のリバイバル。俺の忠誠を疑うのが、唯一の忠誠を誓った主で。
数千年前にはそれはフィンだった。今は彼。欲しくないものばかりが、俺のものだった。


だからマスター、お願いですから。
一番欲しくない言葉だけは、お与えにならないで。


「お身体の具合はどうです?」
「良いように見えるなら、貴様は本当に使えない」
「…………」

期待してはいけない。期待すればそれだけ、傷付けられる。

「包帯を変えましょうか」
「要らん」
「では、お食事は」
「要らん」
「そうですか…」

…わざと作った笑みは、気取られやしなかったろうか?ちゃんと笑えていればいい。
いや、それとも、傷付いた表情を浮かべた方が良いのか。その方が主の溜飲は下がるか?……いや、きっと同じなんだろう。

どう足掻いたって、どんなに尽くしたって、外見を飾り立てても。やっぱり主は俺のことが…


「……お前でなければ」
「え?」

―――耳を疑った。

聞き間違いであってくれよ。今囁いたのは誰だ、蚊の鳴くような声で。これもまた夢の続きか?それでもないと、あまりにうまくできすぎている。

一番欲しくない言葉。

もしそれを与えられると言うなら、これは間違いようなく悪夢。


「ケイネス殿…」
「…………」

これでは余りに報われない!
いやそれが哀しいのではなくて。
いやそれも哀しいのではあるが。
一番はそうではなくて、

一番哀しいのは、ねえ。

「…ディルムッド」
お願いですから、言わないで……なんて。まあ、考えてもみろディルムッド。

―――この人が俺の、頼みを聞くか?

死刑宣告。


「――お前でなければ良かったよ」
「…………」
「お前が私のサーヴァントでなければ…いや、」

主は白い頬で力なく笑い。『忘れろ』と命令を下した。
命令されれば、返事をしなければならない。それが礼儀と言うものだ。


『はい』
『解りました』
『かしこまりました』
『了解です』
『承知しました』
『心得ました』
『ご命令の通りに』
『貴方がそう言うのなら』
『お任せください』


「……俺も」

ともすれば震えそうな声を、奥歯を噛み締めて堪えた。


「貴方じゃなければ良かった。貴方が俺の主でなければ……」
「泣くのか」
「いいえ!」
「そうか」


―――主は、彼は、貴方は。
魔術師の貴方だったなら、そんなことは言わなかっただろう。心中でどんな思いだったとして。自分が喚んだサーヴァントを口に出して、否定しなどしなかったろう。

貴方は弱くなった。魔術師でなくなった貴方は、ただのか弱い人間だ。それがどうしようもなく哀しくて。

ならば、それを俺は―――どうしていとおしいと思わないでいられようか?俺に守られることしかできない、可哀想なあなた。
貴方じゃなければ。貴方が俺の主でなければ。もっと他の誰かだったら。こんなに……

「主、手に…」
「何だ」

お許し下さい。
囁いて、主の掌をそっと掴む。嘗て令呪があった方の。

「……キスを。今一度、誓わせて頂きたい」
「何を」
そんなの、決まっているでしょう。

「――忠誠を」愛を。
いや、愛はいけない。幾らいとおしくても愛しては。だって報われない。この先何千年永らえたって報われることなぞ決してない。
ならば秘めたままで?でも苦しい。
焦がれて、焦がれて、死んでしまうよ。じゃあ―――あなたじゃ、なければ?

「どうか…!」せめてもの恩赦を。


…しかし主は無情にも、俺の手を振りほどいた。目を逸らすと、寝返りを打って俺に背中を向けてしまう。
すると先程まで、痛いほど胸を占めていた何かが、突然抜け落ちて空虚になった。―――期待するから、傷付けられる。

「……眠る」
「はい…」

横を向いた主の頭を、じっと見下ろしていた。表情が伺えないから、主が何を思ってそう言ったのかもわからない。いや、わかりきっている。俺が、…厚かましかったのだ。

「申し訳…ありません…差し出がましいことを……」

また震えかけた声を奥歯を噛み締めて堪え、俺は深々と頭を下げた。一つ鳴った嗚咽を咳払いで誤魔化し、…俺はこんなに弱かったか?どうしてこうも諦めが悪いのか。諦めないから辛いのに。

「俺が、貴方のサーヴァントでなければ、貴方は……!」
「ランサー、…もう良い。私は眠る」
「…はい」

…聞きたくもないか。悪態を吐けるほど我儘だったら、もっと楽に生きられたのかもしれないけど。
できもしないことを願っても意味がないのは、もう痛いほど知っていた。

唇を噛んで、それでは、と頭を下げた。踵を返す。一歩踏み出す度にやるせなさが襲ってきて、足を止めればもうへたり込んでしまったかもしれなかった。握りこんだドアノブは拒絶するように冷たく。思わず笑みを零せば―――

「…ディルムッド」背中から追って来た声に、心臓も止まりそうになった。



「…眠るから……知らん。お前が何を誓っても。私は何も知らない。それでも…」
「…………」
「それでも、…良いか?」
「…………」


―――良くない訳が、ないだろう!

俺は引き返すと、先程振りほどかれた、主の手をそっと持ち上げた――拒まれない。

主はもう既に、すうすうと寝息を立てていた。狸寝入りかも知れないが、そうかどうかの判別は付かなかった。――まあ、どちらだって構わない。どちらにせよ、主はこの応酬を覚えていてはくれないのだから。

―――なかったことになるよ。必死の思いで伝えた、遠回しな告白も。聞いた弱音も。今感じている掌の温度も。胸の痛みも。
それでも、生きていける。俺だけは覚えていよう。例え泡沫の夢でも、支えにするには十分すぎる。

手の甲よりも指先にキスを。反逆の意味が、貴方に判るか?


「……貴方に必ずや、勝利を」


指先のキスは愛情。