――追伸。良かったら、一度海外に出てくる気はないか。偶然仕事が落ち着いてな、今はとある町に身を置いている。この美しい景色を、仁介にも見せたい。
連絡を待っている。
一番大切なことは、まるで見落としてくれと言わんばかりに手紙の一番最後に乱雑に書きつけてあった。きっとこの手紙を受け取ったのが俺以外の誰かだったら、この締め括りをただの社交辞令としか受け取らなかっただろう。………不器用なやつ。きっと手紙を書きながら、言うべきか言うまいか悩んで悩んで、もしかしたら書き直したりもして、悩み抜いた結果がこの手紙だったんだろう。
『会いたい』と言う言葉は、相変わらず手紙には一度も登場しなかった。『書くと会いたくなるからな』と最後に会った時七里は零していたが、きっと実際に会えるとなったら、それはそれで書けなかったんだろうなって想像すると、不器用な彼の姿に笑みが零れた。
ああ、会いたいよ俺だって。お前が美しいと思う景色を、見てみたい。七里。
そんな手紙を返したのが先週のこと。そういえば、俺から七里に手紙を出せたのは初めてだった。七里はこれまで、どこかに長く留まるってことがなかったから。
そして返事が来たのがつい昨日のことだった。けど、開封した封筒の中には七里からの手紙はなく、それに変わるように一枚の紙切れが入っていた――ほとんど地球の裏側行きの、今日の早朝発の飛行機のチケットが。
「ジンスケ・クドウ?」
「え、あ。はい」
飛行機搭乗口で、途方に暮れている俺が一人。七里のやつ、俺がパスポート持ってなかったらどうする気だったんだよ!!
兄さんがどこぞのビッチ共と乱交旅行をするとかでパスポートを作った時についで、と作らされたパスポートがここで役に立つなんてな………人生の不思議さを噛み締めながら、俺は係員にパスポートを見せた。
係員がパスポートを開くと、そこには苦笑いを浮かべる俺の写真がある。ああ、それは何でだったっけな。――そうだ。写真を撮ってる最中で、兄さんが「仁くんは俺が撮ります!!」とか言い出してカメラマンさん困らせて、宥めてすかしてた筈が結局カメラマンさんが丸め込まれたんだったな………何てこったいあの悪魔は!
多分俺はあの時と同じ顔で苦笑して、係員からパスポートとチケットを受け取った。急いで荷造りしたせいで軽い荷物を引きずって搭乗ゲートをくぐると、ついさっきまで手続きをしてくれていた係員が小さく敬礼してくれた。
「Good Luck!」
ウインクのおまけ付きでね。
係員に有難うと手を振って、俺は飛行機のタラップを登った。
***
飛行機の気分がこんなに最悪だなんて………半日の地獄を味わって、俺はふらふらになりながら飛行機を降りた。飛行機のタラップが一段一段沈んで行くようだ。だけど飛行機から空港へと降りると、気分は少し好転した。
――もうすぐ七里に会える。
一体何ヶ月ぶりだろうか?季節は最後に会った春から、もう冬に変わっている。七里のことを想わない日はないけど、面影は日々薄れて行くようで怖い。会ったら、今度こそは写真を撮ろう。できれば飛び切りの笑顔で。
なんて、ウキウキした気持ちで空港のロビーのベンチに腰掛けて……………………
おい。七里、おい。
「待ち合わせ場所ぐらい指定しとけよ…………!!!!!!!!!!!!!!!」
空港のロビーで、途方に暮れている俺が一人。
「何てこったい…………」
そうだ。すっかり忘れていた。七里はあんな完璧超人みたいな見掛けをして、本当は物凄いドジなんだった…………いつか七里が俺にくれて、今携帯にストラップの代わりに結ばれている安産祈願のお守りが何よりもの証拠だった。
遥か異国の地まで呼び付けておいて、待ち合わせ場所を指定し忘れるとかこれはやばい。何がやばいってこの後の俺の身の振り方がやばい。海外では携帯はとても使えないし、係員に頼んで七里を探してもらうのも…………どうなんだろうか。何てったって七里はハンターだ。気軽にその名前を出せば、どんなことで七里が苦労するかわからない。
なんて悶々としてもう数時間。七里はまだ現れない。そろそろ周りの目が痛かった。
や、やめろ、やめ…………そんな可哀想なものを見る目をしないでよ異国の皆さアアアアアアアアアアアん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「クドー?」
「違うんです!!俺は可哀想な子じゃないんです!!!!」
「?人違い?」
「いや久藤ですけど俺が探してるのは五百旗頭…………って、え?」
「???」
「えっ。あ、あの…………?」
「クドー?」
「久藤…………」
「クドー!!!」
「えっ?????」
何だ。何だ何だ!!!???
数時間の苦行の末の救世主は、俺の知らない顔をしていた。救世主は人懐っこそうな笑みで、外国人らしいフランクさで俺に手を差し伸べた。
「Guten Tag.Wie ging es Ihrem Flug?」
「は、……は、はぁ!!!??え、えっ…………」
「ハハハ。What's up?」
「あ、えっと…………Not bad...??」
「Not bad?……『サイアク』って顔してるけど。飛行機は初めて?」
「え、あー。あはは………飛行機も海外も初めてで。揺れないって行ってもやっぱり揺れるんですね」
そう苦笑で返して、俺は男の手を握った…………握ってから、ぎょっとする。傷だらけで、硬くて、それは戦うものの手だった。
こいつは一体何者だ、と最初は思ったけど、俺は男の手に触れたことで大体のことを察した。――ハンターか。つまり、七里の関係者。
それにしては、優しげすぎるような気もしなくはないけど。澄んだ青い瞳の周りに、優しそうな笑い皺が浮かぶ。
「始めまして、クドー。イオキベから聞いてるよ、俺はザラストロ。俺の日本語はどう?」
「始めまして、久藤仁介です。…………いやホントご達者ですね」
「どうも有難う。この仕事してると色んなところに行くから、いつか日本に行く時のために勉強してたんだけど。思わぬところで役に立ったよ」
「あはは……」
「どう?この国は」
「いやまだ、空港なんで全然わからないです。防寒対策が甘い気がして、不安なんですけど」
「防寒?…ああ、冬だっけ。日本よりこっちの方が、厳しいかもしれないね。まあ服なんかこっちで買えるよ」
「はあ、いざとなればそう……ところで、ザラストロさんは、七里の……?」
「ああ――同業者さ。自称、友人でもあるんだけどね?ちなみにただの人間。イオキベのやつ、ちょっと急務でさ。代わりに迎えに行ってくれって頼まれて」
「えっ」
「いや、すぐ片付くらしいんだけど。今日のところはちょっと来れないって」
ザラストロさんは慌てて否定し、まるで自分のしたことのように申し訳なさげに頭を掻いた。
「…はあ。そうですか…」
……七里、手紙では手が空いたって言っていたのに。約束を破られて恨めしい、と言うより、俺は七里の多忙さにやはり同情した。
日本でのらりくらりと暮らしている自分が情けない。かつて七里が日本から離れる時に、了承したこととは言っても、自分ばかり陽だまりにいるのはやはり不甲斐なかった。七里の隣で戦いたい、と言う気持ちもまだ消えてはいない。
…………正直、どうやら今回の相棒らしい、このザラストロと言う男が羨ましい。
ザラストロさんはそんな俺の気持ちなんて知る由もなく、それでさ、と言葉を続けた。
「今から俺の車で移動するから、駐車場まで着いて来いよ。人が多いから、はぐれないように」
「はい。ザラストロさん」
「ザラストロ。敬語もナシ。日本語の敬語は俺ができないから。あと荷物持っていい?」
「えっ!えー…いや、重いですから!いや、重いから!」
「軽いよ、これぐらい。もしご希望なら、お姫様だっこで連れてってやるぜ、Fraulein?」
…………どこかの誰かがかつて使ってそうな言い回しだな!?
俺は諦めてザラストロさん…ならぬザラストロに荷物を託した。
ザラストロははぐれないように気を付けろって言っていたけど、何て言うかそのはぐれ様がなかった。何この人超目立つ。日本よりよっぽど平均身長の高いこの国の人混みの中で、まだ頭一つ分飛び抜けている。
あとそれとだな、あー、神よ。何で俺の周りには、顔の良い奴らばっか集まるんだ!!??
少し癖のある髪は濃い赤色。ラテンの血が混じっているのか彫りは深く、けど肌は寒い国に住む人種特有に真っ白でくすみがない。さっき青、と思った瞳は、じっと見つめるとむしろ碧に近いのだとわかった。
何かモテそうって言うより、むしろめちゃくちゃモテそうだ。兄さんが蟻地獄ならザラストロはジェットコースターだなあ…とか下らないことを考えながら、その横顔を眺めていた。
それから、駐車場に着いて。
そんな、そんなイケてるメンズがな。普通の車に乗ってるわけがないだろうとは予想は付いていたが。
ザラストロは何食わぬ顔で運転席に乗り込んで、慣れた手つきでエンジンを掛けた。当然左ハンドルである………赤のジャガーって。おい。
ハンターだろ…目立っていいのかよ…!!!!!
「…ああ。助手席の扉を開けてあげるサービスは女性用なんだよな」
「ああ……うん全く期待してないどころか、そんなサービス初めて聞いたよ…」
何はともあれ。俺たちを乗せた車は、昼のストリートを滑るように走り出した。流石に『ジャガー』と名を戴くだけあって速い速い。景色は尾を引いてどんどん後ろへ下がって行く。
窓の外には小ぶりの雪がチラついていた。そういえば今は冬だったな…………
「ザラストロって、もしかしなくてもさ」
「ああ。魔笛のザラストロからだよ。夜の女王がタミーノをけしかける神殿のさ、」
「むしろパパゲーノだなって言われない?」
「何でわかるの?それで、イオキベがタミーノなんだってさ。沈黙の試練とか得意そうだよな…」
「確かに」
「だろ?それで――………クドーがパミーナ?」
「…………………」
「ハハハ」
「…………何でわかるんですか」
「こっちじゃ珍しいことでもないよ。あの堅物がわざわざこっちまで呼び寄せるなんて、恋人ぐらいだろ?」
…………なるほど、一理ある。返す言葉もなくて、俺は窓の外の景色へ目を向けた。頬が熱い。唸り出したくなるのを無理矢理飲み下して、バックミラー越しの生温かい視線に気付かないふりをしていて…………
気が付くと、俺は眠ってしまっていた。飛行機での疲れと、早朝から出てきた疲れが溜まっていたみたいだ。
「クドー。着いたよ、クドー?」
「え………」
目蓋を開くと、ザラストロが苦笑を浮かべて助手席の窓を叩いていた。次いでザラストロは助手席のドアを開けると、「どうぞ、Fraulein?」と恭しく手を取ってくれる。……エスコートは女性専用じゃなかったか?
ザラストロに手を引かれて車を降りると、景色は一転して森の中だった。ついさっきのストリートは影も形もない。何時間走ったのか知らないが、日はもう暮れかけていて深い森の不気味さを際立てていた。葉の尖った木々が、風に揺すぶられてざわざわと鳴く。そんな不気味な森の中に、聳え立つ屋敷は一転して白亜だ。
「クドー、突っ立ってないで行くよ」
「ザラストロ、ここ…………」
「ああ、もしかしてイオキベから聞いてない?」
「?」
「…ハンターって、儲かるんだぜ。傭兵より殺し屋よりよっぽどな」
ザラストロは悪どい笑みで、人差し指と親指で輪を作るジェスチャーをする。俺はザラストロに苦笑で返しながら、そういえば七里は俺に金の話をしたことはないな、と思った。
七里と再会してからの数年間で、『人の命はお金に変えられない』と言う言葉の嘘を痛いほど、もはや物理で俺は理解した。賞金で買ったと言う、ザラストロの根城はかつての貴族の別荘を買い取ったとか言う豪華なものだった。外からざっと眺めただけでも、部屋数を示す窓の数は莫大だ。
その中の一室に荷物を運び入れて、ベットに腰を下ろすとそれはぼふんと柔らかく沈んだ。
年代物のベッドは、時を経て木の部分が飴色に変色しているけど、マットレスとシーツは新しく買ったらしく清潔だった。前時代的な装飾が施された窓も、整備が行き届いて軽い力で開けることができる。
まさか一人でこの大きな屋敷を、それもハンターの仕事をしながら管理できるわけがないから、よっぽど腕のいい使用人を雇っているんだろうと感心した。
軽く荷解きをして、窓の外の雪景色を見ているとドアがノックされる音。そして扉の向こうから声が掛かった。今日一日で覚えた声だ。
「クドー、ちょっといいか?」
「ああ。今開ける」
扉を開ければ、案の定そこにはザラストロが立っていた。間近で見るとやはりスケールが違う。でけえ。
「何か不自由は?」
「いや特にないよ。――ところで、七里は…?」
「うーん……もしかしたら何日か俺と二人かも。まあクドーが心配だろうからそんなに遅くならないと思うけど。あ、ちなみにここには何日だっていていいから。どうせ俺一人だからな」
「ありがとう!…悪いけど、とりあえず七里が来るまでは甘えさせてくれると…」
「ハハ。七里が来てもいてくれていいんだぜ――夕食が出来たら呼ぶからまた後で」
「あ、ザラストロ」
「Was?」
「えっと。もし迷惑じゃなかったら、あとでここ案内してくれないかな。珍しくて」
「ああ。構わないよ。じゃあ明日にでも。………あとそれなんだけどさ、ここ、整備はしてるけどちょっと老朽化で危ないところもあるから、一人では出歩かないでくれる?広いから、迷うかもしれないしね」
「ああ…??わかった。それじゃ、また頼むよ」
了解、とばかりにウインクして、ザラストロは部屋から出て行った。案内してもらう時には、この屋敷のいわくも聞いてみたいな。深い森に一軒だけ聳え立つ洋館なんていかにもだ。嵐が丘…は森じゃなくて荒野だったな。
――…七里。こっちに着いて半日も経つのに、まだ連絡の一つもない。
呼んだのは、お前じゃないかよ。俺を気遣って迎えを寄越してくれたのは有難いけど、やっぱりそれより七里に会いたい。
「…早く来ねえと、帰っちまうからな」
そう窓ガラスに語りかけても、勿論返事なんか帰ってこないんだけど!
――雪景色を眺めながらの悶々とした思考は、再びのノックで断ち切られた。
…随分早いな?俺は部屋を出て、ザラストロに連れられて食堂へと向かう。そして、食堂へと足を踏み入れ、食卓に並ぶ料理を見て、俺は言葉を失った。
「………何これ、すげえ…!!!!」
「お気に召しまして?」
ザラストロは誇らしげに笑って、俺に椅子を引いてくれる。
そこに並んでいたのは、生物の本能に訴えかける、これでもかと言う量の肉料理だ。動物の形を、ほとんど残しているものもある。
この森で獲れたものなんだろうか?肉汁を滴らせる動物たちは、どれもこれも新鮮そうだ。…こんなの、テレビでしか見たことないぞ。ザラストロは賞金を有用に使っているらしい。
「…ザラストロ?」
気が付くと、ナイフとフォークで四苦八苦しながら肉を捌いている俺を、ザラストロは愉快そうに眺めていた。料理は見た目を裏切らずとても美味だった。つけあわせの野菜も新鮮で絶品だ。
「食べないのか?」
「いや。美味しそうに食うから、面白くて」
「?」
「食べるよ」
ザラストロはまたにっこり微笑み、やっとナイフをフォークを握った。
俺が食事を終えた後も、ザラストロはまだのんびりと食事を続けている。
「ザラストロ」
「何?」
「何かやることとかない?ただお世話になるのは、どうも…」
「ハハハ。クドーはお客様なんだから気にしないでくれよ。まあそうだなあ…敢えて言うなら、良く食ってのんびりしてくれるのが仕事かな」
「何だそりゃ」
「気にするなってこと。屋敷は明日案内するから、今日はもう寝れば?疲れてるだろ」
「…そ、そう?じゃあ…お言葉に甘えて…?」
家事を何もしなくていいなんて、何年ぶりだろうか。主夫で何年も過ごしている俺にはすごく魅力的な誘いだった……日本に帰った後、堕落しないように気を付けなければ。
「おやすみ、クドー」
「おやすみ。ザラストロ」
***
泥に沈み込むような深い眠りから、俺を釣り上げたのは何度目かのドアのノックだ。
「クドー。朝だよー。クドー」
「………朝…」
「朝だよー」
俺はベッドの脇に置いていた時計を手探りで取る―――23時。23時って朝だっけ。いやねーわ。さすがにねーわ。
一体どのあたりが朝なんだよ…俺は再び枕に頭を埋めた。
「おやすみ…」
「朝だよークドー起きてー」
「うるせえ…」
「クドーむしろ昼だよー」
「夜だろ…」
「昼だよー」
「おやすみ」
「起きてー」
「おやs…」
「クドー」
「…………」
「朝だy」
「おやすみっつってんだろうがアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!」
*
「…あー…そうですね…時差と言うものがありましたね…」
「おう」
遅い朝食を囲みながら、俺はザラストロに言われた時間に時計を直していた。
「日本とここじゃ、半日ぐらい時差があるからな。まあ夜と思うのも…」
「ごめん…」
「ハハハ。意外と重いパンチ持ってんだな。俺と組まない?」
「ごめんなさい……」
頬に氷嚢を押し当てるザラストロは、怒るよりもむしろ楽しそうに朝食をつついている。
寝起きの俺が手加減ができてよかったほんとに…大怪我させてたらしゃれにならなかった。俺は世界ではどうだか知らないが、とりあえず日本では最強の鬼らしいから。縁起でもないが、下手したらうっかりザラストロを亡き人に…なんてことも。
ほとんど一人暮らしで起こしてくれる人もいないから、これまで心配したことなかったけど。これからは気を付けなければあわや、ということにも成りかねない。
「それよりクドー。食事が終ったら、屋敷を案内しようか?昨日も言ったように、危ないところもあるから、全部は見せられないけど」
「!!ありがとう!…いやーホントこんなところ、今回を逃したら一生来れそうにないからさ…」
「おねだりしたらイオキベが連れてってくれるんじゃない?」
ザラストロがゲスい笑みでにやにやと提案する。
………おねだり…………。想像した自分の姿が余りにも気持ち悪くて、俺はそんなことは絶対にしないでおこうと心に誓った。
食事を終えて、ナイフとフォークを置くと、見計らったようにザラストロが席を立った。
さっそく連れて行ってくれるらしいので、俺も釣られて席を立ちザラストロの後ろに着いて行くことにする。
振り返った食堂は、昨日は疲れにかまけてあまり注視できなかったが、溜息が漏れるくらいに煌びやかだった。過剰装飾にも見えるシャンデリアは埃一つなく、床に敷かれたカーペットは複雑な模様で想像力を掻き立てる。二人で食事を取るにはあまりに広すぎる部屋だった。大勢で会食するのに向いている広さだろう。
食堂に面する廊下も、勿論室内ほどとはいかないが、それでも豪華な装飾で飾り立てられていた。何処までも伸びる絨毯は踏むのが申し訳ないぐらいに照り帰って、壁についている、今では使われないであろう燭台も複雑に金属が組み合わされて、そしていつでも使えるようにしっかり整備されている。
その廊下を進んで、一つ一つ部屋の曰くを説明してもらいながら、俺は段々と狐につままれているような気持ちになってきた。
余りにも綺麗すぎるのだ。まるで、この屋敷が作られた当時に迷い込んだみたいな…………掃除が行き届いているっていうレベルじゃないぞこれ。まあまさかタイムスリップした、なんてことはないだろうから、掃除の神が何人も勤めてるんだろうな…………と、思うよりないんだけど。
ここに来てからまだ一人も、ザラストロ以外の人間に会わないのはどういうことだ?屋敷は水を打ったように静まり返っている。俺たちの目に付かないように仕事をしているのかもしれないけど、限度ってもんがあるだろ?
勿論この屋敷は、ザラストロ一人で掃除しきれる広さではない。俺が来るまでに大掃除をして、使用人たちに暫く暇をやっている、という可能性もある。だが…………じゃあ食事を用意しているのは?夕食も朝食も、ザラストロ一人でさばける量じゃなかったぞ?
「クドー」
「えっ!?」
「ここ、俺の部屋」
はっと深くまで沈み込んでいた思考から浮上すると、ザラストロは大きな扉の前で足を止めていた。
慌てて追いついてその隣に立つと、ぎぃ、とザラストロは扉を開けてくれる。
「わ…」
そこは広い広い部屋だった。俺が借りている部屋もただでさえ広いのに、その倍ぐらいはあるかもしれない。天井は高く、そこから大きな木の実みたいに豪華なシャンデリアがぶら下がっている。壁は時代物の本棚や戸棚で埋められ、それぞれが飴色につやつやと輝いている。奥には大きなベッドがあるらしい。その側には窓があって、吹き込む風で高価そうなカーテンをひらひらと揺らしていた。
「…………恥ずかしいから、見るだけね」
照れ臭そうにザラストロは笑い、その笑みは大層魅力的だった。もし俺が女だったら、どぎまぎして二の句が継げなくなってたかもしれないな…………外国人イケメンは強し。
やがてザラストロは扉を閉めると、廊下へと踵を返した。
きっともててもてて困るんだろうなあ……それどころか年がら年中毎日が選り取り見取りどころか大バーゲンなんだろうなむしろ毎日のように修羅場に巻き込まれてあまつさえ自称恋人が百人単位でいたり男の友達ができなかったり知らないうちにパパになってたりするんだろうな怖いイケメンじゃなくてよかったー!!!!!
なんて自分の凡夫さに初めて――…いや初めてではない。どこぞの鬼いちゃんに何度も噛み締めさせられてたわ。
なんて自分の凡夫さに感動を抱いていると、ザラストロはまた扉の前で足を止めていた。
ザラストロの自室の扉とは大きく違って、今度の扉は小ぶりで、誤魔化すように壁と同じ色に塗られていた。
「ここはさ、地下室に通じる扉なんだけど、地下室が一番老朽化してて危ないんだ。だから、絶対近づかないでくれよな」
「わかった」
家主のザラストロがそう言うんだから、俺にそこに近付く理由はない。
それからまた他の部屋を案内してもらい、全て巡り終えた後には俺はもうへとへとだった。時間ももう昼になっていて、食堂に帰ると昼食の準備ができている。まるでタイミングを見計らってたった今配膳したように、冷えるものは正しく冷え、熱いものは正しく湯気を立てている。
…………やっぱり何か騙されているようだ。
***
昼を過ぎると、外は雪混じりの雨が振り出した。昼間でも黒々とした木々が、雨の礫にざわざわと揺れている。
まるで夜みたいに暗い。窓ガラスは氷のように冷たく、俺は衣服の前を掻き合わせた。ザラストロのノックで食堂へと降りていくと、今日も食欲をそそる肉料理が所狭しと並んでいる。
「思ったんだけど、食糧ってどうしてるんだ?一々街まで買いに行ってる、ってことはないだろ?」
食事に手を付けながら聞くと、ザラストロはグラスを転がしながら小さく笑った。ワインで濡れた唇が血を啜ったように赤い。ザラストロは人差し指を下へと向けるジェスチャーで口を開く。
「地下室がある、って言っただろ?そこが涼しいからさ、月に一度食糧を買い込んでそこに置いてるんだ」
「なるほど」
「ワインセラーも地下にね。ところでクドー、酒は?未成年でも、こっちなら未成年じゃないんだぜ」
「おい悪いこと教えようとすんなよ…………」
海外だと成人の基準が違う、とザラストロは言いたいらしい。全く。
面白がって執拗に酒を勧めてくるザラストロを誤魔化して、食事をしているうちに雨は激しくなっていた。たった二人の部屋では、話し声は雨音に負けてしまいそうだった。
横殴りの雨が、まるで幽霊でもいるようにバンバンと窓を叩く。これじゃホントに嵐が丘になってしまいそうだ…………
「ひっ!!??」
仕上げ、とばかりに玄関の方から大きな音が響いてきて、俺は思わず飛び上がった。男の癖にみっともない………俺は笑われるんじゃないかとザラストロを盗み見た。
――だが。ザラストロの表情はからかう表情でも俺と同じく怯えた顔でも、ついでに言えば怒りでも悲しみでもどれでもなかった。
ザラストロは能面のように感情のない顔で、けど唇だけをにゅうっと吊り上げる不気味な笑みで玄関へと視線を向けていた。まるで、子供の描いた絵みたいな笑顔。
「ザラストロ………?」
意を決して声を掛けた瞬間、ザラストロの不気味な笑みは消えていたが。
「イオキベじゃないかな。多分」
「え!?」
「迎えに行ってあげなよ。俺が行くより、喜ぶ」
「あ、ああ…………」
俺はまだ先程のザラストロの笑みに打ちのめされたまま、恐々と席を立った。何かに纏わり付かれているような嫌な気分で玄関までを駆ける。玄関を叩く音は時間を置いて何度も続いていた。
扉の前に立って、俺はその向こうへ、雨に掻き消されないよう声を張り上げた。
「七里?」
ふと、扉を叩く音が止む。一瞬の空白があって。
「――仁介?」
それだけで俺は狼か山羊か確かめるのも忘れて、大きく扉を開け放った。
「七里………!!!」
数か月ぶりの七里は、ぬれねずみみたいになってザラストロ邸の入り口に立っていた。
身長が見上げるほどに伸びたって、間違えるはずがない。俺を見る優しい目と、…………着こなしもかわんねえなおい。ゴアテックスの上着だけでは、雨も相まって今はもう寒そうだ。
「仁介、無事だったか!?」
七里はほっとした表情で、駆け寄った俺を抱き留めた。
「怪我はないか。何かされたか」
「お前、ザラストロのこと何だと思ってんの?何もねえよ!ていうかお前は?雪降ってただろ。寒くなかったか?」
「――雪?何の冗談だ」
七里は呆れた笑みで俺の頭をぽんぽんと叩く。ちょっと背が伸びたぐらいで調子に乗ってからに………まあ何もないなら良かったけど。
「寒いから」と七里を招き入れて扉を閉める。吹き込む雨で、俺の服までびしょびしょだ。早く乾かさないと、風邪を引きそう…
「…七里?」
見上げると、ついさっきまで笑っていた七里が、今度は訝しむような表情で俺のことを見下ろしていた。目が合うと七里は困惑を深める。
…何か変なことしたか?首を傾げてみせると、七里は難しい顔のまま口を開いた。
「仁介。お前何故、寒いと――今は――」
「いらっしゃい。イオキベ」
「!」
――だが。七里の疑問を聞き切る前に、話の腰を折った奴がいた。…わざとじゃないと思うけど。
ここで登場できるような人物はたった一人しか居らず――その当人たるザラストロは、にこやかな笑みで食堂から現れた。
そうだ、ザラストロも居たんだった!七里との久々の邂逅に、ついつい記憶の端に追いやっていたが。
関係が知れてたって、恥ずかしいもんは恥ずかしい。俺は今の今まで寄り添っていた七里から身を離そうとし――
「な、七里!!??」
「…………」
離れるどころか、先程以上に近くに引き寄せられて俺は困惑した。え、何これ。えっ何してんのこの人!?これってあれです!!!???
『駄目、人が見てる…』
『見せつけてやれよ』
『だ、駄目だよおそこは…』
『とか言って、感じてんだろ?』
『や、ぁ…っ!』
『(薔薇の花が散る映像)』
って言うあの前時代の…それか例の頭がフットーしちゃう例の……いや、言うまい。所有者宣言…いや…いや…やめろレザージャケットの話はアアアアアアア!!!!!!!
なんてどうしようもない思考を彷徨わせていられたのもつかの間。
俺は今になってからやっと、七里から苛立ちのようなものが発されていることに気付いた――ザラストロに向けて。
俺を引き寄せたのも、情がどうこうというよりザラストロを警戒して、という感じがする。………何で?
「思ったより掛かったね。もうちょっと早く着くもんだと思ってたけど。迷った?」
「貴様……!!!」
「まあまあ。クドーもいるんだから落ち着けよ。とりあえず食事でもどう?今後の話は、また、しようぜ?」
「…………」
七里はそれ以上答えず、俺の手を引いてザラストロの横を擦り抜けた。途中小声に、「食堂は」と訊かれる。俺は内心ちょっと怯えながらそれに答え―――…
ザラストロと顔を合わせてからずっと発せられている、七里の苛立ち――むしろ殺気に近いかもしれない、に俺は混乱していた。七里とザラストロは、友人関係にあるって聞いていたんだけど。もしかして本当はそうじゃないのか?けど、会ったばかりの俺が二人のことに踏み込むのも違う気も…うーん。
「七里。ここだ」
七里は無言に足を止めると、閉まっていた食堂のドアノブを握った。ぎいい、と音を立てて扉が開いたが、七里はすぐには食堂に入らなかった。
――ああ。開けてくれたのか。俺は七里の横を通って、食堂へと入る。それからもともと座っていた席へ座ったが、七里はまだ食堂に入ってきてすらいなかった。
見ると何だか様子がおかしい。俺は再び席を立って、七里に歩み寄った。
「……七里?」
七里は、さっきから、変だ。ザラストロと会ってからおかしい。
近寄って眺めた七里は、茫然自失な様子で食堂内を見つめていた。目の前に立つ俺にも気付いていないように見える。
七里の視線は食堂の床を這い、壁を昇って、天井を見上げ、食卓の上に収束した。七里はそれまでドアノブを握ったままそこに立ち尽くしていたが、見ている前でついに床に膝を付いてしまった。吐き気を堪えるように口を覆った七里に駆け寄ると、七里はやっと俺のことを思い出したらしい。
「仁介…」
「七里、お前一体…」
「お前は何も感じないのか!!!!????この部屋を見て!!!!!?????」
「え!?…な、何…」
「―――ザラストロか!!!!!!!あの、悪魔…!!!!!!!!!」
七里の苛立ちのようなものは、もう疑いなく殺気に変わっていた。虹彩はもう真っ赤だ。けど、俺は全く話が読めなくて、ただ狼狽えるしかできない。
この部屋に、何か俺の気付いてないおかしいことが…………?と思うけど別に部屋は普通だ。うーん…………ってことは、失礼だろうけど…………
「…………七里お前さ、疲れてるんじゃないか?」
連日連夜仕事じゃな…………それも命を削る仕事だし。疲労はどうしようもなく溜まるだろう。疲れてるから、部屋が変な風に見えるのかもしれない。そう言えばさっきもなんか、どうでも良さそうなことが引っかかってたみたいだし。
「今日はもうさ、さっさと飯食って寝て、そんで………」
「……ったのか」
「え?」
ふっと、七里を駆り立てていた怒気が消えた。えっ、と困惑している間に、七里が俺の腕を掴み………その手は酷く震えていた。
「まさか、あれを…………」
七里は。世界の終わりを知ってしまったような絶望の面持ちで、俺の顔を覗き込んだ。
「あれを、食ったのか!!??お前が…………!!!」
「え…………」
無言を、肯定と七里は受け取った。七里は絶望の面持ちを苦痛を堪えるような表情に変え、次の瞬間、俺の手を取って立ち上がっていた。
「うわっ!!??」
「お前の部屋は」
「え。こ、」
「――こっち、だな」
「七里……!!」
七里は俺の意思も気にせず、手を引いてずんずん廊下を進んで行く。道中七里は厳しい顔で、らしくもなく時々舌打ちまでしていた。一体全体どういう…………七里は突き飛ばすように俺を部屋へ押し込むと、後ろ手に鍵を掛けた。
怒りを超えた絶対零度の視線が俺を射抜いている。…………俺は何か間違ったのか?
「吐け」
口内に捻じ込まれる七里の指。
その味が覚えられるほどになってやっと、七里は俺を解放した。
***
翌朝。当然目覚めは最悪だった。食堂へと降りて行く足は重い。昨日の出来事は怒涛で、七里が来たのは夢だったんじゃないかと期待すらしたが…………
「クドー。おはよう。よく眠れた?」
「…………」
にこやかな笑みで迎えてくれるザラストロ。その人を七里は昨晩あれほど罵倒していたって言うのに、今朝は涼しい顔で同じ食卓に座っていた。コーヒーを啜る七里の横顔に、昨日の面影はない。
『ザラストロに危ぶまれない程度に食事は避けろ』
七里の昨夜の言葉が脳裏に蘇ってくる。何で、とは思うけど、七里があれほど怒るからには理由があるんだろう。俺はコーヒーと不満を一緒くたにして飲み干した。
「クドー、今朝はそれだけでいいの?」
食事に手を付けないのを心配したのか、ザラストロが声を掛けてくれる。
「いや、来てから豪華なもんばっか食ってたから、胃もたれしちゃって…………」
「ハハハ。日本人は胃腸が弱いね」
「はは…………」
ザラストロはその言い訳で納得してくれたらしく、それ以上突っ込んでは来なかった。ザラストロと七里、二人にどう接していいかわからないまま気まずい食事が終わり―――冷戦状態にあった二人の壁を崩したのは、ザラストロからだった。
「ところで七里。ここにはいつぐらいまでいるつもり?俺としてはいつまでいてくれたって構わないんだけどね?」
食事中、ずっと指先へ落とされていた七里の視線がすっと上がり、直線的な動作でザラストロへと向けられる。
俺はてっきり、七里は「今日にでも出て行く」って言うんだと思っていた。理由は知らないが、七里はザラストロに対して殺意すら抱いていて、この屋敷にも何か不快感を抱いているらしい。
ならここから出ていけば、全部解決するはずで間違いないから、そうとばかり思い込んでいたってのに。
「そうだな。――では、暫く世話になろう」
「えっ?」
七里はこれ以上なく不愉快そうに、ザラストロへと答えを告げた。……何で…………?
「仁介、行くぞ」
「え。えっ」
「…………」
動かない俺を七里は睨め付けると、俺を置いてさっさと歩いて行ってしまう。慌てて席を立ちながらザラストロを盗み見ると、ザラストロは嫌な顔一つせず七里の背中を目で追っていた。
「いいよ。じゃあ―――昨日の約束、果たせよ」
「…………………当然だ」
七里は振り返らずに吐き捨てて、すたすたと食堂から出て行く。行く先は俺の部屋らしかった。七里は俺が部屋に入るまで待ってくれていて、俺が入るとまた部屋の鍵を閉めた。ベッドの上に腰を落ち付けた七里の隣に俺も座る。会話はなかった。七里は何か考え込んでいる様子で、むっつりと黙っている。その冷たさは、まるで再会したて頃のようだった。
…………昨日の約束、とは。訊きたくてしょうがないけど、答えてもらえない気がして黙っていた。
『昨日』約束したとすれば、俺が眠った後だろう…………
想像する。俺を寝かしつけた後に、七里は足跡を殺して部屋を出て、美しい廊下を歩く。行く先で待ってるのは当然ザラストロだ。
にこやかな笑みで、やあ来たね、と扉を開いて。それからザラストロはあの豪奢な部屋に七里を招き入れて、それで、それから……………………――やめよう。
「仁介」
「えっ」
「……溜め息を吐いていたから」
「――あ、そうだった………?ごめん」
「いや…………」
それきり何も言わない俺の手を、七里はそっと握ってくれた。答えてくれないだろう、と言うのは俺のただの被害妄想で、聞けば七里は簡単に教えてくれるのかもしれない。
ずっとずっと焦がれた存在がすぐ隣にいるって言うのに、手も触れているのに、ただ今は皮膚だけの距離が途方もなく遠い気がして…………
夜。
扉の開く物音で、俺は狸寝入りから目を覚ました。扉を閉める音で、俺が目覚めるのを恐れたのだろう、少し開いたままの扉から廊下を覗き込むと、真っ暗な中、廊下を進んで行く輪郭が見える―――七里。
考えるより先に身体が動いて、俺は七里を付けて廊下を歩き始めていた。持ち得る最大限の力で、気配を消して。
七里は気づかない様子で、廊下をどんどん進んで行く。足取りに迷いはなかった。そして、七里が足を止めたのは案の定、ザラストロの部屋の前だった。内側から扉が開いて、何か言葉の応酬がある。
その後、扉は七里を招き入れて閉まり、俺は―――…………気が付けば、つい先程七里が立っていた場所に立っている。気配を消すことを完全に失念していたけれど、気付かれていないようで良かった。
この、扉を。
開いて中に入る勇気は流石に俺にはなかった。扉はきっちりと閉まっていて、隙間を覗くことはできないし…………だがここで、この屋敷が現代のものでないのが幸いした。
鍵が現代のものと違って、アクセサリーとかで見られるあの形のものなのだ。つまり呼応して、鍵穴も大きく部屋の中が見通せる。
…………俺は廊下に膝を吐くと、浅ましくも鍵穴に目を近付けた。罪悪感に心臓が軋む。息を殺してじっと穴の向こうを見つめていると、やがて目がその暗さに慣れて来た。それでやっと、二人が何をしているかわかる……そして。
ばくん、と心臓が跳ね、―――これほど、誰かを恨んだこともないかもしれない。それはザラストロをなのか、七里をなのか、ぐちゃぐちゃに混じり合った感情ではよくわからないけど…………
這うように廊下を引き返して、元の通りにベッドに潜り込んでも、目に焼き付いた映像は中々消えてくれなかった。鍵穴というファインダーを通して見た光景が、網膜のフィルムに鮮やかに焼き付いている。
まるで熱帯夜のように寝苦しい夜。耳慣れたノックに急き立てられて、昨日より尚寝覚めは悪い。
「おはよう。クドー」
「……おはよう…………」
今朝はもうまともに七里の顔もザラストロの顔も見れなかった。ふとなんでもないことで、怒鳴り散らしてしまいそうな自分がいて怖い。…………俺はこんなに弱かったっけ?
何ヶ月離れてたって七里を疑ったことなんかなかったのに、たった一晩で全てが変わってしまった。平然と食卓を囲む二人を見ていると、はらわたが煮え繰り返るようだ。…………こんなことなら、わざわざこんなところまで来なけりゃ良かった。一人で舞い上がって海外まで来て、馬鹿みてえ。
親密そうに抱き合って、七里の首筋に頭を埋めるザラストロの姿は、それぐらいの衝撃だった。
***
それから幾晩か。そしてまた、深夜。俺は何度目かに、扉の開く音で目を覚ました。…………七里。
こっそり扉の隙間から廊下を伺うと、奥へ奥へと歩いて行くゴアテックスの背中が見える。行く先は多分また、ザラストロの部屋だろう。七里は俺がいるのに、ザラストロは俺と七里のことを知っているのに…………何で。二人の不実を思うと胸は張り裂けそうに痛んだ。
ザラストロと、そう言うことになったから…………俺とは…………ってことならさっさと言って欲しい!いや、実際七里にもし、「別れよう」なんて言われたら受け止める自身は全くないんだけど。七里がいつまで経っても、この屋敷を出ようと言わないのが、答えのような気がして怖かった。
七里。お前は何を考えてる?何で俺のこと、はるばるここまで呼んだんだよ?
送られてきたチケットに、手紙が同封されていなかったのは一体どういう訳だったんだろう。手紙では言えない話を………別れ話を、するつもりなのか?
なんて猜疑心に揺れる俺は、また何時の間にか七里をつけて廊下を歩き出していた。
ザラストロ自身のことは、別に嫌いじゃなかった。けど七里を奪うっていうんなら、俺は…………
見ている先で、案の定七里はザラストロの部屋へ入って行った。俺は足跡を殺して部屋の前に立って、扉の向こうへ耳を澄ました。何を言っているかまでは聞き取れないが、話し声と僅かな衣擦れの音。鍵穴を覗けば、また抱き合う二人の姿が見えるのかもしれなかった。…………俺は。
もし二人を問い詰めて、七里がザラストロを選んだら、きっと冷静ではいられない。知らないふりを続けていれば、俺は七里ともザラストロともこのままでいられるだろう。…………今の七里は、九十九山で初めて会った時のように冷淡な時がある。俺に愛想を尽かしたのかな。
―――七里は多分、ザラストロを選ぶ。きっと問い詰めたら、さよならだ。
七里。
俺は、それでも………お前が好きなんだ。お前が幸せなら、いいやって、言ってやれないかも。
…傲慢でごめんな。俺もそこでは、兄さんに似てるかも…
俺は覚悟を決めると汗ばむ掌でドアノブを捻った。鍵は掛かっておらず、扉はすんなりと開いた。
扉の音は深夜の館内に不気味な大きさで響き、部屋の中の塊がぎくりと動く輪郭が見えた。
「仁介………!!!???」
信じられないものを見た顔で、七里は声を裏返した。七里の声で気がついたらしい、ザラストロが埋めていた首筋から顔を上げる。
前に鍵穴から見たのと、同じことの再現だった。慌てたように七里がザラストロを突き飛ばして、首筋を押さえる。…また、やっぱり。
涙は出なかった。感情は今を悲しむことよりも、これからどうしようか、と言う方へシフトしている。身を引けば綺麗だろうけど。――制裁。そんな言葉が頭の中でぐるぐる回り続けていた。
七里。何でだよ。何で…!!!俺は怒りと共に、先程ザラストロが触れていた七里の首筋へ目をやった。
七里はそこを隠そうとばかりに手で触れているが、それは隠し様がなく血で……………………えっ?
室内に電気は点いておらず、俺は始め見間違いかと思った。いや、見間違うはずもない。だって――俺は鬼だ。現代を生きる、比良坂家最期の鬼。だから、鬼の俺が見間違えるはずがないんだよ、ここが真っ暗闇だって。
よろよろと壁に手を這わすと、有難いことに電気のスイッチは俺の部屋と同じ所にあった。甲高い小さな音と一瞬の空白の後、電気が付けば―――やはり。
七里の首筋を押さえる指の間から、幾筋もの血の川が流れていた。首まで覆うゴアテックスの上着のせいで、昼間は気が付けなかったようだが。
「七里、それ、…えっ。血………?」
俺は、七里の不義の現場に出くわすつもりでいたのに。これは一体どういうことだ?立ち尽くすザラストロの唇は真っ赤だ。つまりそれは、七里の血で。つまり、ザラストロは今、もしかしたらこの前の晩、俺が鍵穴を覗いた夜も、七里の血を、啜って、
「仁介、どうして………!!!」
痛々しく眉を顰めた七里の顔に、俺は七里を疑った自分を恥じた。七里が俺を裏切る筈がないことは、俺が七里を裏切る筈がないのと同じだ。だから、これは―――
「ザラストロ、お前は…………<何>だ?」
声を掛けたザラストロは、唇の切れそうな狂った笑みで俺に応えた。それは明らかに、人間が浮かべられる笑みじゃない。
「久藤仁介、――<動くな>」
ザラストロの唇が【な】の形に固まるのを見届けたのと同時。
「仁介!?」
七里の声で、俺は床の上に膝をついている自分を見つけた。立ち上がろうと慌てて膝に力を込めるが、肝心の膝は嘲笑うように、立ち上がらせるどころか俺を転ばせさえする。
「仁す…」
「――おっと五百旗頭。お前も動くなよ?動いたらもっとすげえこと言っちまうかもしれねえからな」
「貴様…!!!」
射るような七里の視線にもザラストロは狂った笑みで喉を鳴らすだけだ。顔のパーツを無視した笑みはブラクラじみて気味が悪い。ザラストロほどの美丈夫ならば尚更だ。ザラストロは淫猥に唇を舐めると、動けない俺を身を屈めて覗き込んだ。その目つきだけで俺は大体のことは呑み込めて、これまで騙されきっていた自分自身に歯噛みした。
こいつは―――【ザラストロ】じゃない。むしろ【ザラストロ】の逆だ。聖人の皮を被った、――【悪魔】だ。
「気っ持ちわりぃんだよホモ野郎共。Spinnst du?欠陥遺伝子のJ*P共が人間面してヒーコラマス掻きあってよぉ、気味悪すぎてイっちまいそうだぜ、なァArschloch!!??猿は猿らしくケツ振って媚びたらどうだァ、そしたら俺の気が向いて寿命がEine Sekundeくらいは伸びるかもしれねーぜぇ!!!???」
ザラストロは何やら俺の理解できない言語で罵詈雑言を吐くが、意味はわからなくてもその悪意は隠し様がなかった。ザラストロの背中の向こうで、七里が怒りに目を剥いている。虹彩が鬼の色にぎらぎらと光っていた。
そしてそれはザラストロもだ。…ザラストロは人間で、ハンターだって聞いていたのに。だがどう見ても今のザラストロが悪魔なのは間違えようない。
俺の戸惑いを感じ取ったのか、ザラストロは笑みを深めて大きく腕を広げた。
「それじゃあ種明かしと行きましょうかねえ。おい五百旗頭、テメエも聞きてえだろう?俺っていう、お前のお友達の皮被った悪魔の成り立ちをよう。聞きてえんなら俺のケツにキスしなDrecksau!!!」
「な、な…」
「<動くな>っつっただろテメーはよぉ。脳味噌腐ってんのか?まあその分騙されやすくて楽だったけどなァ―――良い食べっぷりだったなァおい。美味かったか?」
「やめろ!!!!!」
ザラストロの言葉に、七里が大袈裟なほど反応する。ザラストロはいつも澄ましている七里が、感情を荒げるのが楽しいらしい。下卑た笑みで七里を見やり、七里にまで<言葉>を掛ける。
「<黙ってろ>よ王子様。…なァクドー。いつかお前によ、ここには一人で住んでるって言った事あったよな?…………あれ嘘なんだ、ごめんな」
聞くな!!!と声を奪われた七里が、唇だけで俺に訴えかけてきた。けど、耳を塞ごうにも<動けな>くてはどうにもできない。縫いとめられたように見上げる頭上では、楽しそうにザラストロが演説を振るう。
「ホントはさ、俺以外にもいるんだよ。使用人とかコックとかさ。でもなきゃ、料理が出せねえよ…………な、クドー」
ザラストロが俺の名前を呼ぶ声色には飛び切りの悪意がこもっていた。…そりゃそうだろう。でもなければ、この屋敷の掃除も食事も回せない。
――でも、俺は人っ子一人見かけていないんだが、ザラストロの言葉はそれに反していないか?…ていうか。こんな普通のことを、七里が必死になって聞かせまいとするってのはどういう……ん?
『使用人やコックがいないと、料理が出せない』?コックはわかる。けど、使用人まで並べる理由は?
料理を作るには、普通コックがいればいい。じゃあ何で使用人が必要なんだ?これまで何度か口にした料理――…そういえば、肉料理が多かったな。
…肉?
そして俺はよせばいいのに、七里が俺を無理矢理吐かせた事とか、極力食べるなとか言ったことを思い出し、思いついて、まさか、と内心で笑い飛ばし、冷静になって、やっぱりそんなことあるわけねえよと否定して、でもやっぱり、―――理由、今までわかっていなかったその理由、を、理由。
理由。
「…………あ、あー。あ、あっ。あ…………」
肉料理。悪魔が嘲笑に自らの唇を裂いた。
「悪くなかっただろ!!!????俺様が特別に手ずから調理してやったんだぜ!!!!????」
「――ひっ。ひ…………っあ、あー………ああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
――――…人、肉だ。
俺は、知らなかったとは言え、見知らぬ誰かの肉を引き裂き、齧り、千切り、啜り、せせり、食らったっていうのか?
「仁す、けっ…………!!!!!」
話す事を許されたらしい七里が、絶望の面持ちで呟く。その目には涙さえ滲んでいた。俺は胃をひっくり返すように吐いて、けどもう消化されてしまったのか、固形物がほとんどないことに絶望する。
…………いや、しかし、俺が食べたと思ったのは、確かに動物の肉だったと思うのに。だが七里のその表情こそ、ザラストロの言うことの証明だ。じゃあ俺がこれまで見ていたものは何だったんだ?これは―――
「そう。<幻覚>だ久藤仁介。【ザラストロ】の身体を奪ってここにいる俺の十八番」
「幻、覚…………」
「五百旗頭には通じなかったみてえだけどなァ。全部わかってたんだろ?素敵なディナーも、屋敷も、季節もよォ…………何で教えてやらなかったんだァ?」
「七里………?」
「くっ…………」
七里は悔やむ顔で、痛々しく眉を寄せる。七里が俺を想って全てを告げなかっただろうことは、わかるが。でもどうして…………七里は地獄の釜を覗いたような暗い目で、すすり泣くように呟く。
「…………お前がこの屋敷で平然としているのを見て、気が狂ってしまったのかと思った。だがすぐに、そこにいる悪魔の得意技が、幻覚を見せることだと思い出した。お前にすぐに真実を告げたとして、きちんと幻覚が解ける確証はない。何か後遺症でも残れば大事だ。だから暫く様子を見るべきだと思い、何も言わなかった。
だが―――…………お前が何食わぬ顔で、肉を食ったと言った時は本当にぞっとした。だが、お前がこいつに幻覚を見せられているせいでこれに気付いてないというんなら―――気付かせたくなかった。お前に罪の呵責など、感じさせたく…………仁介俺はまた、間違ったのか…………?」
「――――ははは」
悪魔は俺たちの絶望を見て、これ以上ない美酒を味わうように下舐めずりする。
「それじゃあそろそろ、クドーにも世界の真実を教えてあげましょうかねぇ。そら―――Eine,Zwei,Dry!」
悪魔が仰々しく指を鳴らすと――そこには。これまで俺が見ていたのとは違う、荒廃した部屋が広がっていた。
磨き上げられ、美しかったはずの窓には蜘蛛の巣が貼っていて、ベッドは乱れ、枕は臓物みたいにその中身を吐き散らかしている。
調度品は悉く錆が浮き、そこいらに埃がたまっていて………壁と床のそこかしこが、真っ赤な絵の具で汚されている。
鼻をつく汚臭にも、今まで気付かなかったのは何故だ?そして俺は改めて、この数日間見ていたものが全部嘘っぱちだったことを知るのだ。
「…ザラストロ」
感情を無くしたようにぐったりとしていた七里が、不意に声を挙げた。声の響きは、これ以上ない哀切だ。
そういえば、今の今まで七里がザラストロを名前で呼ぶのを聞いたことはなかった。七里はザラストロの正体を知っていたから…だから。それを知ると、屋敷についてすぐの七里の殺気にも説明がつく。
「どうして……どうして、こんな……」
「『どうして』?愉しいことに理由がいるか?」
「『愉しい』?」
「ああ、愉しいぜ――久々の身の入る狩だ。若い身体も悪くねえ。ホントザラストロ様々だぜ!!」
「お、ま、ええええええ!!!!!!!!!!」
「おっと」
激昂して飛び掛った七里を、悪魔はやすやすとかわした。睨め付ける七里の視線を嘲笑う笑みで受け止めて、ひらひら手を振って見せる。
「鬼さんこちら、手のなる方へ…………とか言うのか?日本では?全くザラストロの奴、変な知識持ってんなァ…………混乱するぜ…………あー。俺の成り立ちの話をしようと思ったんだったな。随分脱線しちまった」
やれやれ、と悪魔は態とらしく肩を竦めた。それから悪魔は俺と七里を代わる代わる見つめてたっぷり間を置き、さながら演者のように俺たちを煽り立てる。
やり過ぎにも思える長い間の後、やっとこさ悪魔は芝居を再開する。
「俺って言う悪魔はよ、そもそもはただの人間だった。昔すぎて喰らいすぎて、もう元の名も思い出せないけどな。人間だった時から、俺は数え切れない程の人間を騙し、かどわかし、苛んで来た。そんで気が付いたら【こっち】側に放り出されてたってワケ。悪魔になったって変わらねえよ、ただ奪い続けるだけだ。…………そうして、どれぐらい経ったかなァ。何人殺して、何人の血を啜ったか?覚えちゃいねえよもう。そんなことはどうでもいい。それを―――どうでも良くねえって言ったのが―――ザラストロだった。俺に引導を渡しに来た、ハンター様だ」
「ザラストロ、お前は、何で…………」
名前を呼ぶ声に混じる、七里の親愛を悪魔はザラストロの顔で踏み躙る。
「よォ、五百旗頭。悲しいか?たった一人の友達を奪われた気持ちはどうだ?気持ちいいか?勃っちまいそうか!?――だがザラストロはよ、使命は果たしたんだぜ?…ただ、詰めが甘かった」
「詰め…………?」
「ああ。ザラストロは確かに、俺を殺した。俺と言う悪魔に対して破壊の限りを尽くした――刺し違えてまでな。
そんで俺と一緒におっちんじまったザラストロは、哀しい哉…………俺よりほんの、毛程の一瞬ほど、俺より早く死んだ。俺にとっては神からの助けだったぜ。――俺はザラストロの血を汚した。するとどうだい。俺は気が付くと、ザラストロその人になって、元の俺の死体を見下ろしてたってワケ。記憶も何も抱えたまんまな。不思議なものもあるもんさね。俺って言う血の器に、ザラストロはぴったりだったってワケさ!!!」
「悪魔め……!!!」
「ああ?テメエに言われたくねえな五百旗頭。鬼なんだろ?テメエはよ?ザラストロの記憶がそう言ってるぜ!―――だから俺は、お前のことがずっと、怖く…………あ、あれ?」
ザラストロの嘲笑う声色が、不意に変わる。瞠目した七里が、――ザラストロ、と小さく呟くのが聞こえた。悪魔は目を白黒させて、けど視線は七里から外さなかった。俺を縛る<言葉>も心無し緩んだような気がする。
先程の下卑たものとは違う、知性のある声がザラストロの唇から流れ出した。
「…本当はずっと、お前のことなんか嫌いだったよ。鬼のくせに同族を狩るなんて、気味悪ぃんだよ。それに、いつ鬼の側に寝返るともしれない」
「ザラストロ…………」
「【人間】のお前が良い奴だってことはわかってた。お前が俺たちと同じくらい、鬼を嫌っていることも。――けど恐怖は消えない。お前と二人になる時、俺はお前にいつ殺されるかって怯えてた――みっともねえな。そう自己嫌悪にさせられるから、そういう意味でもお前のこと苦手に思ってた」
「…………」
七里は、「…そうか」と苦い顔で床に視線を落した。何だよ、どうなってんだよこれ。色々と、七里に対してあんまりじゃないのかよ!…だが口を挟む権利など俺にはなかった。ただここで、息を殺してじっとしているしか。七里は不意に顔を上げると、ザラストロに向けてふっと笑う。
「俺もお前のことは苦手だった。俺と対極すぎてな、どうしていいかわからない」
「――嫌いだった。って言えよ。後腐れいいだろその方が。どうせ俺はもう引き返せない。――悪魔として生きるなんてまっぴらごめんだ」
「……ああ」
「って、言わねえのかよ、後悔するぜ?あーあ……そういう強情なとこも、嫌いだな、俺は」
「すまんな。性分だ」
「ハハ。大っ嫌いだよ、お前なんかよ……けど、俺はお前の事嫌いな以上にさ、」
そしてザラストロは今日の今日まで俺が、もしかしたら七里もまだ見たことなかったであろう寂しい笑みを浮かべた。ザラストロはその手を、首の後ろを掻くように首筋へ当てる。それから、「絶対言いたくなかったんだけど」、と笑みを深めた。
「俺はお前に―――…お前に憧れてた。お前の力に…………俺はお前に、なりたかったよ、七里」
ザラストロは。
奇しくも最期の最期に手に入れた悪魔の力で、―――自分の首を刈り取った。
水風船が爆発したように、部屋中にザラストロの血が降り注ぐ。それは凍り付く七里の頬にも。遅れてザラストロの首が、床に転がる重い音が聞こえる。
今や拘束は完全に解けて、俺はよろよろと立ち上がった。
「七里………」
声を掛けても、七里は返事をしなかった。………無理もないだろうと思う。目の前で自殺したのは、…七里のたった一人の友達だったやつだ。ザラストロはしきりに『嫌いだった』と口にしたけど、そんな一縄筋ではいかないだろう。軽蔑と、恐怖と、尊敬。…そんな友人関係も、世界で一つぐらいなら許されたっていいだろう。
俺は七里がそっとしておいて欲しがっているような気がして、転がるザラストロの首を拾いに行った。
…………埋葬してやりたい、と思う。その理由は、一重にザラストロが七里の友達だったってことに尽きる。
床に転がるザラストロの首は、最期の寂しい笑みのまま固まっていた。綺麗だと、場違いな感想が浮かぶ。
俺はベッドから汚れたシーツを剥がし、その頭を包もうと手を伸ばした。…けど、何となく違和感を感じて手を止める。
何か、おかしいような…………???
慌てて手を引っ込めかけた刹那、閉じていたはずのザラストロの目が急にばちりと音を立てて開いた。
『久藤仁介、<動くな>』
「!!!???」
この世のものでない声が部屋を揺らして響いて、俺は首を拾い掛けたままぴくりとも動けなくなっていた。背を向けていた七里が、驚いたように振り返る。
『五百旗頭、テメエもだ。<動くな>』
悪魔の言葉に、七里が驚いた顔のまま固まってしまう。俺と七里二人しかいない部屋の中で、第三者の足音が近づいてきた。聞いている間に視界の端から腕が伸びて来て、ザラストロの首を拾い上げる。視線だけ動かせて見上げると、―――首のないザラストロの身体が、空白の上に元の頭を乗せようとするB級ホラーのような光景があった。
…………おかしいはずだ。ザラストロはもう悪魔なんだから、死んだら灰になるはずなんだ。だから、つまりザラストロの勇姿虚しく、悪魔は死ななかったのだ。
『あーくそ。くっ付きやしねえ!折角の新しい身体が台無しだぜ…………』
忌々しげにザラストロだった悪魔は、自らの頭を押さえたままに吐き捨てた。
『今の今まで俺の中に隠れてやがったなんて、中々どうしてやるじゃねえかザラストロも。まあこれで本当に死んだらしいがなァ…………ったく。長引かせるから、こういうイレギュラーが起こるんだなァ…………やれやれ…………』
とりあえずは首を付けるのを諦めたのか、悪魔は首を棚の上に置いた。首のない男が血塗れの部屋に立ち尽くしているのは、恐怖を通り越してむしろ嘘っぽかった。
やれやれ、と悪魔はまず俺を見やる。お喋りの時間は終わったらしかった。悪魔はめんどくさそうにも見える手付きで、俺へと手を伸ばした。
『五百旗頭と出会った四半世紀を、後悔して死ねよ。久藤仁介』
―――首のない悪魔の、見えない視線を感じた。今や死の気配は肉薄してそこにある。走馬灯か?前にもこんなことが多々あったなと俺は昔を顧みていた。始めは七里を知った晩に。俺の血を理解した夜に。
舌先に蘇るのは自らの血の味だ。記憶はパズルが嵌まるように。やることは自転車に乗るのと一緒だ、身体が覚えてくれている。だから俺はただ――………従えばいい。
「考えてみれば、始めからおかしかったんだ」
『…………あ?』
突然口を開いた俺に、悪魔が不信そうに眉を寄せる。…………何で気付かなかったんだろうな、今の今まで。ザラストロの最期の言葉が、引き金になったのは間違いなかった。
「ザラストロは七里の友達だったんだろ?だったらその、ザラストロが七里を――………『イオキベ』なんて苗字で呼ぶはずがねえんだよ!!!!!!!!!!」
驚いたのは、悪魔よりも七里の方だった。だがそれこそがもっともの答えだ―――集中!悪魔の暗示を、自らの暗示でぶち壊す。身体を絡め取る糸を断ち切るイメージで…………動いた!!!!!
「な、にィ!!!???ただの人間が、どうして…………!?」
驚愕の面持ちで、悪魔がつい今まで立っていたところから飛び退いた。その次の瞬間には、そこには俺の火柱が上がっていたから賢明な判断だと褒めてやってもいい。日本で七里の帰りを待って、のほほんと暮らしてたせいでついつい忘れてたぜ。俺って言う生き物が、どういう成り立ちだってのかなァ!!!!!
「くっそおおおお!!!!!<止まれ>!<動くな>!何で効かねえんだよ!!??俺は、俺は………」
棚の上の悪魔の首が、歯軋りをして悔しがる。視界の端でちらつくそれが目障りで手を振ると、悪魔の首はその一振りで炎の中に溶けるように消えた。
『お前は日本で最強の鬼だ』と言う七里の言葉が耳元で蘇る。それを思い出してしまえば、悪魔の言葉はただの死人の血迷いごとだ!
――ついに、
がつん!と悪魔の背が部屋の壁にぶつかった。悪魔は更に逃げようと藻掻くが、頭がなくては周りも見えず難しいらしい。
終わりだ。
とどめ、と俺は最大出力の炎を纏った手を振り上げ―――しかし、横から肩を叩かれ、その手を下ろした。
代わりに悪魔の前に立ったのは、もちろん…………
「ザラストロ。俺はお前のことが …………嫌いじゃなかったよ――有難う。…………さよなら」
七里は追悼の笑みで、その手ずからに友達だったものの心臓を刺し貫いた。
***
洗脳が解けてみると、白亜の屋敷は一転して屠殺場へと姿を変えた。
埃まみれの廊下にはいたる所に血がこびり付き、逃げようとしたのか、窓には血の手形がいくつもべったりと貼り付いている。血の痕は食堂が特に酷かった。…まあそこで行われていたことを思えば当然だろう。
何か、引きずったような床の赤い筋を辿っていけば、それらは全て地下室へと通じていた。地下室への扉を開ければ、胸が悪くなる独特の臭い。そして階段を降りていけば案の定、そこには幾つもの死体がまるで物のように折り重なっていた。ザラストロが悪魔に変わるまで、ここに務めていてくれた使用人たち。
「…………ザラストロは、変わったやつだった」
七里は地上への階段を登りながら、独り言のように呟く。
「俺のことを、友人だと。まだ出会って数ヶ月も経っていないのにな」
「…………時間は関係ねえよ」
「そうかもしれないな。だが、俺はこの業界では鼻つまみ者だ。ハンターの癖に、鬼の血が通っているからな。受けた嫌がらせは星の数ほどだ。…………そんな俺を、ザラストロは友人だと言ってくれたんだ!」
「七里………」
七里の、押し殺したような口調。身体の脇に下ろした手がぶるぶると震えて、背中はその悲しみを雄弁に語っていた。
「…本当はあの悪魔討伐の仕事もな、俺とザラストロ二人で行くはずだったんだ。けどザラストロが、一人で大丈夫って……俺がここのところ休みなしなのを知っていたからな。仁介をこっちに呼ぶことを、提案してくれたのもザラストロだった。彼女喜ぶぜってさ。彼女じゃないって言った時も、そうか、って笑ってくれた。俺は、そんなあいつの事を…………」
「七里!」
屋敷の外へと出た七里を、俺は堪らず呼び止めた。足を止めた七里に後ろから近付いて、手を握るとぎゅっと握り返してくれる。
季節は夏だった。日本から地球の反対側が、同じく冬なわけがなかったんだ。
けど夜の森は、それでも凍えそうなほど寒い。…………暖が欲しかった。
「七里…………ありがとう」
「仁、」
「俺のために頑張ってくれて、ありがとな。…………それと本当に、ごめん…………」
「仁、くん…………っ!」
泣き出した七里をしっかりと抱き留めて、俺は血塗られた白亜の墓標を火に焼べた。
***
「……そう言えばさ、何で俺は景色が冬に見えてたんだろうな?」
あの惨劇の夜から、もう幾晩もが経過していた。今は気ままなバカンスの途中。このクソ暑い中では、流石に七里もゴアテックスの上着を脱いでいる…………暑い。日本の夏と比べれば涼しい方だけど、ついこの前まで冬の中にいた俺には堪え切れない暑さだった。
「………あの悪魔はあの通り、幻覚を見せることや、<言葉>を信じさせることに長けていた。言霊、と言うやつだな。あいつはお前を空港で迎えた時に、こっちも冬だと思っていた間抜けなお前の言葉に同意したんだろう?それでお前の世界は、お前の思う通りに冬になった。後からあいつも驚いたろうがな」
「ふーん…………いや間抜けは余計だっつーの。でも何で同意したわけ?こっちは夏じゃん」
「…………これは推測に過ぎないが、奴は奴自身で、自分の時間感覚は崩壊している、と言っていた。季節もわからなくなるなんて、有り得ないとは思うが。悠久の時を生きていれば、そう言うこともあるんじゃないか?」
「なるほどなあ…………」
まあ、そう言うこともあるのかな。20年もまだ生きてねえから、よくわかんねえけど。
俺たちは数日前から、七里が本当に見せたかった景色の側に身を置いていた。美しい街の片隅のアパルトマン。特に窓からの眺めは最高だ。今も建物越しに見える斜陽が、鳥肌が立つほど美しい。そんな景色を、俺たちはソファに並んで腰かけてぼんやりと眺めていた。
空港にザラストロ――悪魔が現れたのは本当に誤算で、本来なら最初からここに連れてきてくれるはずだったそうだ。
『俺のことも、俺が数日後にお前を迎えに行くと言うことも、奴はザラストロの記憶から読んだんだろう。それで俺を出し抜いて、お前を攫った』
そんな風に七里は言っていたっけ。少しでも七里を苦しめてやろうと、俺を巻き添えにしようとしたんじゃないか、とか。俺の正体についてはザラストロにも告げていなかったから、知る由も無かったんだろうってことだけど。
「…………あ、そう言えば聞きそびれてたんだけど」
「何だ?」
「あいつに、血を飲ませてたのは何だったんだよ。それも一度じゃなくさあ………」
「ああ。あれか。俺には奴の幻覚は通用しなかったからな、お前を傷付けない交換条件に、血を求められていた―――元はと言えば、お前が平和ボケするから悪い。お前の本来の力を持ってすれば、あんなショボい幻覚になんか惑わされなかっただろうに…………」
「それについては悪かったってば…今度から気をつけますよ!」
「……今度がない方が良いんだがな……」
七里は呆れた顔で俺を見据えて、独り言のような音量でぼそりと呟いた。
はいはい、七里の名前に釣られて、ホイホイついて行った俺が悪かったです!!!…………全く。とんだ初めての海外旅行だった。
「あ!!!それとさあ!!!」
「…………まだ何かあるのか」
「嫌そうな顔すんなよ!手紙だよ、手紙!何でチケットしか入ってなかったんだ?あれのせいでこちらとらしなくてもいい心配をだな」
「…………………ああ。あれは…………」
「あれは?」
「…………訊かないでくれないか」
「はあ?」
七里はそれきり黙って、気まずそうな顔で目を背ける。…………いや。いやいやいやいや!!!!!あれのせいで多大な心配をさせられた俺は、例え七里が嫌がったとしても聞き出すまでは諦められない。つーか、やっぱなんかあんのかよ。手紙を入れられないってことは、一体どう言う意味なんだ。
「七里」
「…………」
「七里ー」
「…………言わないといけないか?」
「おう」
「…………」
悪いが、今回ばかりはお前の意志は関係ないんだ。じっと眺め続けていると、七里はやがて溜め息を吐いて深く肩を落とした。申し訳なさそうな顔で、俺を見やる。かと思うと七里はポケットから、紙束を出して俺に差し出した。
「これ―――…手紙?…もしかしなくても、チケットと同封するつもりだった―――お、お前まさか。まさかお前」
まさか。あの安産祈願のお守りの次は。
「…………チケットだけは絶対に忘れてはいけないと封筒に入れておいたら、手紙を入れるのをすっかり忘れて投函してしまった」
「お前!!!!!!お前なー!!!!!!!」
「―――だがな!!!お前も悪いんだぞ!!!あの悪魔にホイホイ騙されてついて行くから、俺は迷子センターに駆け込むハメになったんだぞ!!!???待ち合わせ場所にいつまで経っても来ないから、途方に暮れて帰宅したら家に手紙があった俺の気持ちがわかるのか!!!!!!!」
「わかりたくもないわっつーかお前ザラストロに出し抜かれてないじゃねえか!!!!!!元はと言えば全部お前のうっかりのせいかよ!!!!そのせいでお互い危ない目に…………お前…………」
「……。悪かった」
「拗ねんな」
「拗ねてない」
「拗ねてるだろ…………ったく。変なところで抜けてるんだからなあ…………」
まあそこが、かわいいんだけどな。っていうと照れて怒られそうだから心の中に留めるだけにしておいた。
七里の首筋の噛み跡は、もうとっくに治っていた。まあ治っていたとしても、妬ましいと言えば妬ましい。
――例え正当な理由があったんだっても、俺以外が七里に触れるのは気分が悪かった。…これまではこんなに狭量じゃなかったと思うのに。今回の出来事は、俺たちの関係をまた違ったものに変えてしまったように思う。七里に対する俺の執着が、生易しいものじゃないと気づいてしまった。
「…………七里」
俺は読み終えた手紙を脇に置いて、七里の手の上に自分のそれを重ねた。途端に絡まる指。その温度を感じながら、俺はそっぽを向いたままの七里に言葉を掛ける。
「……まだ連れてってはくれないのか?」
「…………」
「危険だから?それとも、邪魔か?」
「―――邪魔なわけないだろう。……俺だって、お前が側に居たら、どんなに良いかと………だか、これはけじめだ」
「七里」
「…困らせないでくれ」
七里は弱り切った笑みで、やっと俺の方を向いた。…ずるい。そんな顔されたら、駄々捏ねられないじゃないかよ。何を言われたって着いていこうと覚悟したのに、あっという間に解けてしまう。
「…これから先も、会いたい時にも会えないまま?七里が会いたい時、会える時にしか会えないって言うのに、一人でずっと待ってろって?」
酷いことを言っている自覚はあった。けど、文句の一つぐらいは言わせてもらわないとわりに合わないだろう?…困らせたいわけじゃない。ただ知ってほしいだけだ。
「……浮気するかもしれねえだろ?心配じゃねえの?…俺は心配だよ。お前がどこの誰と、何してるかって気が気じゃない!いつ途絶えるかもしれない手紙に怯えて、手紙も出せないことに苛立って、こんなに、――こんなに苦しいんだよ。わかんねえ?わかるだろ?――それでも、お前は……」
ほんの、ほんの少しだけ期待した。七里が思い返してくれることを。……だけど。
「―――ああ。…それでも俺は、お前に……待っていてもらいたい」
「…………お前、何言ってるかわかってんの?」
「ああ」
「わかってねえ」
「解る」
「全然、全然わかってねえよ!!!!!俺が、俺がどんな思いで、今日まで……っ!!!!!!」
ぽた、と大粒の涙が膝へと滑り落ちて行った。ぎりり、と奥歯を噛み締めても止まらない。みっともないし予定外だけど、抗議行動としてはうってつけのことだったろう。
…けど。七里の意志はそんなことでは曲がらなかった。何でこんな強情なんだろう?ザラストロにも疎まれてたじゃねえかよそれ。
――俺が折れるしか、ないのか。こんな最低の奴が、俺はどうしてこうも、好きなんだろうか。七里が差し出してくれたタオルで、俺は顔を拭った。
「…仁介。そういえば訊き忘れていたんだが、大学はどうなんだ?」
「……別に普通だけど。七里はもう、全く?」
「ああ。行かないだろうな。時間も意味もないだろう。興味はあったがな」
「…そうか」
「ああ――仁介」
「何?」
「大学を出たら、社会人だな」
「嫌な話はやめろよ…今からもう就職難に怯えてんだからさ」
「―――仕事を紹介する」
「……は?なん、何だって????」
七里は疑問に答えないまま、俺を置いてすっくと立ち上がる。慌てて追いかけようと腰を上げたけど、…何だ。七里が行ったのは隣の部屋だった。
何だろうと待っていると、七里は何冊かノートを抱えてソファへ戻ってくる。表紙にはWeise Frauと…ヴァイセ・フラウで合ってるかな。つまり白い婦人?って何だ?
「―――Weise Frau.ドイツの古城に現れる亡霊で、彼女が現れた時には人が死ぬ、という伝承がある。銀の災厄を覚えているか?奴は自分の不死の身を、『ヴァイセ・フラウ』に口付けを受けたと自称した。それが吸血鬼になったことの隠喩なのか、それともヴァイセ・フラウなる吸血鬼の始祖がいるのかと長年論争が繰り広げられてきたが…どうやらいるらしい、と言うことが確かになってきた」
「…そんで、それがどうしたって?」
話が読めないんだけど。ヴァイセ・フラウってものがまず眉唾だ。いるらしい、とは何とも不確定。ていうかそのヴァイセ・フラウってのが俺と何の関係があるわけ?白い災厄はそら忘れようがないけど。
「お前はかつて銀の災厄を倒したな?…まあ闖入者のせいで胸を張って『倒した』とは言い難い結果だったが。とにかく。銀の災厄―――バルドゥイン・シュヴァルツェンベックは俺たちハンターが長年目の敵にしながら、手出しもできない最強の存在だった。それをお前は倒した―――つまり、お前は若輩にして、世界最強のハンター、と言うわけ」
「お、おう!!??」
「だが、ヴァイセ・フラウが本当に存在したとすれば、銀の災厄など目ではないだろう。厳しい闘いとなるはずだ」
「おう……??」
「つまり」
七里は不敵な笑みで俺を見据え、俺の手にそのノートの束を押し付けた。…何これくれるわけ?
ぱらぱらとノートをめくって見るが、その中身は俺にはほとんど読めなかった。わかるのは、ドイツ語らしいと言うことぐらいだ。ヴァイセ・フラウがドイツのものだから、ドイツ語の資料なんだろうか?一通りノートを眺めて、顔を上げると七里はまだ笑ったまま俺を見つめていた。不敵な笑みではなく、嬉しそうな笑みで。
「―――卒業後、迎えに来る」
「………え?」
な、
「しっかりドイツ語を学んでおけ。でないと、あとで苦労するのはお前だからな。俺は知らん」
「ちょっと待って!!??それつまり、一緒に――…」
「久藤仁介。いや、ザラマンダー。お前に仕事の依頼をする。内容はもうわかると思うが、ヴァイセ・フラウの討伐だ。賞金は協会が出そう。諸経費も協会が負担する。…ちなみに、サポートには俺が付く」
「…な、な……」
「不服か?」
「まさか!!!!!」
むしろ、これ以上望んだら罰があたるぐらいの厚遇だった。七里が俺を呼び寄せたのは、会いたかったからということもあるだろうが、多分この話をするためでもあったのだろう。
…なんて言ったらいいのか、うまく言葉がまとまらない。だって俺はもう、七里と離れて暮らすことを、しょうがないと諦めるつもりで…ああ。そうだ。俺自身の言葉はとりあえず置いといて、今言わなければならないことがあった。
人生にはターニングポイントってもんがあるらしい。それの一回目は間違いなくあの五月、七里が現れた九十九山の夜だったけど、二回目がいつかって言えば間違いなく今日だ。
一度失って、必死になって取り戻した日常を、俺は今度は自分の手で放り出そうとしている。
…この手を、取れば。間違いなくもう二度と日常には戻れない。痛いし苦しいし、きっとその世界には良いことなんて一つもない。七里がその意志に反して無理矢理堕された世界に、俺は自らの足で踏み込もうとしている。それは、酷くバカげたことだ。
――それでも……七里。お前がいるなら。
「依頼を――受けます。ヴァイセ・フラウは、俺が必ず――――」
この日。人間がたった一人のために、世界の全てを捨てられることを俺は知った。