「***と呼んでくださいまし」
額に額を押し付けて、吐息混じりにアーチャーが囁いた。唇は触れそうに触れないが、視線は火花を散らすくらいにぶつかっていた。
紅蓮の赤、血の赤、夕焼けの赤。
どう例えれば正しいだろう?正しく伝えるための叙情を、私は元より持ち合わせてはいないのだった―――だからと言って悔やみはしないが。そう口に出せば、またアーチャーは私を『つまらぬ男』と謗るのかもしれなかった。
じゃあ、そんな男のどこがいいんだ。そう問えばまた戯れな言葉で茶を濁すのだろう。
『面白いから』。『楽しいから』?『可愛らしいから』―――『……しいから』?
私は冷たい床の上。押し倒されて打ち付けた後頭部が脈打つように痛んで熱かった。
覆い被さるアーチャーの金髪。首飾りが微かに硬質な音を立てる。
しかし頭の中はと言えば、鈍痛に反して酷く冷めきっていた。
こいつも下らないことを言うものだ、などと。
【それは妻の名前である】
「…冗談が過ぎるぞアーチャー」
「冗談ではありません」
「いい加減にしろ」
「お怒りにならないで」
「……誰に聞いた?」
アーチャーは困ったように笑うばかり。まるで『口止めされていますので』と言う風であったが、口止めなどに従う男か。と言えば否。自分のために生きているのだ、こいつは―――ならばこれも自分のためか?
「何の遊びだ」
「遊びだなんて」
「遊びじゃないなら一体何だ」
「本気よ」
「ふざけるな」
「…冷たいのね」
アーチャーは呟いて、少し傷付いたような笑みを浮かべてみせた。鼻先も触れ合う距離の瞳の中には、不愉快そうな顔をした男が映っている。
…私は不愉快に感じているのか?冗談にしては度を過ぎている、とは思うが。
「アーチャー」
「***」
「違う」
思わず即座に否定を返すと、何故だかアーチャーは嬉しそうに笑って身を擦り寄せてきた。
アーチャーの掌が私の身体のあちこちを這い回る。ワイン臭い吐息が耳に触れる。
…これは一体何の趣向だ?身体中を這い回った掌が、すっと上へ登ってきて頬に触れた。
それは確かに男の手で、それは確かに妻の手ではない。間違いなく。惑わされるはずもない。アーチャーが笑えば、その吐息が唇に触れた。
「あなた……」
事の発端は何を思ったか、アーチャーが私の部屋に入り浸り始めた頃まで遡った。
戯れな言葉を投げ掛け、部屋を散らかすだけで満足していたアーチャーだったが、日が経てば気も変わったらしい。
身体の関係を求められたのはつい先日のことである。
さながら夕食のメニューでも提案するように。
『一度我を腕(かいな)に抱けば、誰もが我をどんな美姫よりも美酒よりもと言う。
お前の優れた収集も、我と比ばば水も同然。
味わいたいと思わぬか?その指で、舌で。ただ一言欲しいと申せ。
二度と、この世に飢渇を癒すものなしと言う顔はさせぬ』
ああ下らない下らない。冗談も大概にしてくださいませ。
「……退け」
私はアーチャーの手首を掴むと、頬の上から引き剥がした。その手首が思いの外に華奢である、なんて場にそぐわないことに気付いて困惑する。するとアーチャーはまるで女のような笑い声を立てた―――…煩い。
私は逆の手でその口を塞いでやった。その唇は、まるで女のそれのようにしっとりと濡れていて…
思わず躊躇った掌から、その舌先が逃げ出した。
「っ……」
反射的に引っ込めかけた手首を、今度掴んだのはアーチャーの方だった。
舌先は掌から指を濡らしてなぞり、指先にかぷりと噛み付く。ちりりとした痛みに眉をひそめれば、僅な血がアーチャーの唇を汚している。まるで紅でも差したようだった。―――*、ふと口を突いて出た名前に困惑する。
いや違う。これはそ、う、じゃない。彼であって彼女ではない。彼女はもう死んでいて――いや彼ももう死んでいた。
ならばそ、う、であっても。これが彼女か?―――君を愛さなかった。いとおしいとは思えなかった。私が恨めしいか。これは罰か…
「…お前の弱点を見つけたぞ」
「…………」
「――どうした、言峰。まさか本気にしたのではあるまいな」
「貴様…」
「怒るなよ。人が折角女のように扱わせてやると言っているのに。不能かお前は」
「もう喋るな」
「また塞げばいい」
「…いい加減にしろ」
私はアーチャーの顔を押しやると、強引にその下から這い出した。
立ち上がって見下ろせば、アーチャーは起こしてくれ、とばかりに手を差し出したが、起こしてやる義理もなかった。
「…つれない奴め」
アーチャーは肩を竦めると、床に手を突いて立ち上がる。アーチャーは一人で喋る。
「なあ言峰」あなたと呼ばれるよりは座りがいい。
「お前の血だ。返してくれる…」
返して要らん。美味くもないのに。
…首の後ろに回した手を解くと、アーチャーは後ろに下がった。これ見よがしに唇を拭う反応も、王を喜ばせるものでしかないのに。寛容な王。アーチャーは満足げな笑みで踵を返し…
不思議に引き止めかけた手の甲は、アーチャーの瞳と同じ色に濡れていた。