目覚まし時計がピピピピと僕の起床を急き立てる。示す時間は6時半だった、いつも僕が起きる時間。寮生の僕は、本当なら6時半に起きる必要はない。本来なら8時に起きたって間に合うのだが、僕はそれを許されてない。
――白峰と、久保谷を。
起こさないと、と僕はベッドの上に身を起こした。その際に掛け布団がはらりと落ちて、僕を外気に露出する――寒い。当たり前だ、もうこんな季節だもの。
丘の上にある僕らの学校は、冬が来るのが早い。聖誕祭が終われば冬が来る、と言うのが生徒の間の通説で、それに倣って今年ももう冬が訪れかかっている。
僕は布団に半身を埋めたまま、ベッドサイドの眼鏡を手に取った。すると世界は瞬く間にクリアになる――6時半を指すデジタル時計。
「……あ」示す曜日は――……日曜日。僕は肩を竦めた。
**
食堂へ降りれば、思いがけない先客がいた。驚いたのは先客もだったらしく、彼は手を止めて振り返る。
「辻村」
「…おう。早いな」
彼は悪戯が見つかった子供の顔をする。
「まだ6時だぞ。今日は日曜だ」
「間違えたんだ」
「生徒会長様が何をやってる」
「もう退任したようなものだよ」
「正式にはしてないだろう」
それはそうだが。僕は食堂の椅子に腰を下ろす。辻村は急にそわそわし出す。
「寝たらいいじゃないか。せっかくの日曜だ」
「僕もそう思う」
「じゃあ――」
「目が冴えてしまって、どうにも」
「…………」
「それはそうと、君は何をやってるんだ」
日曜なのに、と続ければ、辻村は苦虫を噛み潰したような顔をした。部屋着にエプロン。前髪をピンであげている。そして、その目の下には深い隈がある――多分寝ていない。締め切りが明日なんだと昨日彼はぼやいていたっけ。つまりは今日だ。
「原稿は?」
すると辻村はばつの悪そうな顔をした。彼は彼の編集者の前で良くそんな顔をする。僕は辻村の編集者ではない。
「……和泉が」
「和泉?」
「昨日。何て言ったか覚えているか?」
「昨日…」
和泉?どうしてここで和泉が出てくるんだろうか。さて、何かあっただろうかと僕は思った。僕は眼鏡のフレームを押さえる――何か考える時の癖のようなものだ。しかし僕が思い出すのを遮るように、辻村は苛立たしげにキッチンを叩いた。
「カレーが食べたいって。俺が忙しいのがわかってて…」
「ああ…」
そう言えば、そんなこともあったっけ。
昨晩の夕食。辻村のメニューはラーメンだった。食堂に僕ら五人が揃って、さあ食べようとなったところで和泉は爆弾を落としたのだ。僕にはどうだかわからないが、カレーよりラーメンの方が楽らしい。それにそれはそうなら、俺が作り出す前に言えよと当然のように辻村は激怒。じゃあ食べなくていいとまで宣い、和泉は平然と部屋に引っ込んだ。
怒り狂う辻村を久保谷と白峰が宥め、食事はなんとかお開きとなった訳だったが。
「別に和泉のためって訳じゃない。朝カレーは健康にいいと言うしな」
「そうなのか」
「ああ。カレーのスパイスが交感神経を刺激するんだ」
「なるほど」
自慢げに知識をひけらかした辻村の向こうには、ぐつぐつと煮たつ鍋がある。まだ色はない。鍋の側に置かれた小鉢の中身が、辻村の言うスパイスらしい。何だか朝から本格的だ。何だかほっとした様子の辻村は、やっといつもの調子を取り戻したようだった。
「と言うわけで、朝食にはまだ掛かる。別にそこに居たって構わないが、見ての通り俺は忙しい」
「うん、そうみたいだ。じゃあ僕は外に出てこよう」
「走るのか?」
「今日は散歩にする」
「寒いぞ。マフラーくらいして行ったらどうだ」
「まだ早い」
「そうか」
適当な相槌を返したあと、辻村はもう僕などいないように鍋に向き直った。カレーが原因で喧嘩した和泉と辻村。折れるのはいつだって辻村の方だ――仲直りが、したいんだろう。「うまくいくといいね」辻村は背中を強張らせた後、息を吐いて後ろ手に手を振った。
**
幽霊棟を出て数歩。僕はいきなり辻村の忠告を受け取らなかったことを後悔していた。
「寒い…」
ましになる訳でもなかったが、一人ごちた僕は上着の襟を合わせる。まだ息が白くなるほどではなかったが、もう十分に寒かった。そのせいなのか、いつもこの時間にはちらほら見える日曜をもて余した寮生の姿も見かけられない――僕だけだ。
冬の朝は水を打ったように静かだった。山の方か、学校の方か。どちらに行くか僕は迷って、学校の方を僕は選んだ。冬の山はなんとなく吸い込まれそうで怖い。
学校へ向かう道にも、人影はなかった。日曜に学校へ行くのは、部活のある生徒くらいだ。確か校門の開放は7時半。彼らが訪れるのもまだだろう。
校門につけば、案の定それは開いていなかった。もし万が一開いていたなら、白峰のようにベンチで微睡むのも良いと思ったのに。僕はもて余して校門に凭れる。
そして瞼を伏せれば――いつの間にか少し眠っていたらしい。
「何やってんねんお前。生きてるか?」
「痛っ」
「痛いんなら生きてるわ。良かったな」
「…斉木か」
「おうお早う。放浪癖もええ加減にせえや。流石にこれじゃ凍死する」
「ああ…」
――瞼を開けば。いつの間にか制服姿の、見慣れた男が立っていた。彼を僕の右腕だなんて言う生徒もいるそうだが、右腕がこんなに五月蝿かったら僕は嫌だ。
「斉木。今日は日曜日だ」
「ああ。そうや」
「授業はないんだ。馬鹿だな」
「アホはお前や。何勝手に凍死しかかってんねん。任期終えてから死なんかい」
「僕は…」
「もうええ。マフラーやるわ」
斉木は肩を落とすと、くるくるとマフラーを外して僕へ差し出した。マフラーは冬の木々のように濃い茶色をしていた。斉木のマフラーを見下ろして僕は戸惑う。
「なんや。俺のマフラーは嫌か」
「君が風邪を引くかもしれない」
「それよりお前が凍死した方が寝覚めが悪い。受け取っとけ副会長命令や」
「僕は会長なんだけど」
「そうや。副会長は会長を補佐せなならん。ほら」
斉木の差し出すマフラーを、僕は結局受け取った。斉木が引き下がってくれそうもなかったからだ。斉木はよし、と納得したように頷いて、僕の隣へと凭れた。その拍子に校門ががしゃんと鳴る。僕は斉木のマフラーを巻いた。
「何やってるんやお前。今日は日曜やで」
「僕は散歩だよ。その証拠にほら、私服じゃないか。君は」
「部活や。演劇部の」
「演劇部…」
「知らんかったか?」
「ああ」
「淡白なこっちゃ」
大して傷付いた風もなく斉木は言った。
「聖誕祭が終わったから、もう引退したみたいなもんやけど。三年なったら受験やしなあ…そこは生徒会と一緒や」
「ああ」
「楽しいことなんかみんなのうなってもうて、来年は耐える年や。憂鬱やわ…」
「珍しい」
「何が」
「君が弱音を吐くのは」
「いつも吐いとる。お前が聞いてへんだけや――どこぞの生徒会長様が、俺に仕事ひっかぶせた時とかな」
「…………」
「…お前、ちょっと変わったな」
「そうか?」
「気が回るなんてらしいないわ。気味悪い」
「…………」
「まあ、ええこととちゃうの?どうせならもっと早うにそうなって欲しかったけど」
斉木は揶揄するように笑ったあと、校門に背を擦って座り込んだ。腕時計が指す時間は7時少し過ぎ。開門まで座って待つつもりなんだろう。――聖誕祭が終われば。
生徒会も他の文化部も、活動なんかないみたいなものだ。二年なら尚更。正式な解任は来春だが。
「…君の演技を見てみたかったな」
「は?」
「残念だ」
「…………」
斉木は呆気に取られたように僕を暫く見上げていたが。
「…気持ちわる」やがて気恥ずかしそうに首の辺りを掻いた。
**
「わ、茅サン!良かった帰ってきた!」
「ただいま久保谷」
「…おかえりなさい」
玄関を開けた久保谷ははにかんだ笑みで僕を迎えると、寒いから早く、と僕を室内へと急かした。すると食堂にいた辻村と和泉も僕をおかえりと迎える。食堂にはカレーの匂いが漂っていた。
「煉慈。辛いよ」
「辛いのが美味いんだろう」
「辛い」
「…………」
「まあまあ!さっちゃんもレンレンがせっかくさっちゃんのために作ってくれたんだからさ!」
「別に和泉のためじゃない!俺がカレーを作りたくなったんだ!」
「そう」
「なんでそんな素直じゃないかな…!!まあまあレンレン、とりあえず茅サンにもカレーついたげてよ…」
なんかごめんね、と久保谷は僕に申し訳なさそうな笑みを向けた。別に久保谷が謝ることは全くないと思うんだが。
「ほらよ。冷める前に食え」
なんて横暴に宣った辻村には、隠せない緊張がちらちらしている。カレーを僕に手渡しかけて、辻村は訝しげに目を細めた。
「そのマフラー…」
「女の子にでももらったの」
「茅サン買ったの?」
「斉木が貸してくれたんだ」
「はあ?あいつはお前の保護者かよ…」
「付き合ってるの」
「えっ茅サン…」
「理不尽だ」
僕はカレーを受け取って、テーブルの上に置いた。付き…!?、と辻村が呆気に取られても、当の和泉はどこ吹く風でカレーを口に運んでいる。そんな二人に久保谷が苦笑して、そうだ、と僕へ向き直る。
「――そうだ、ハルたん」
「白峰?」
「起こしてきてくれないかなあ」
「今日は日曜日だよ」
「うん。でもせっかくレンレンが頑張ってくれたから、みんなで一緒に食べたいじゃない?」
「なるほど」
別に頑張ってない!と辻村が噛み付いて来るのを久保谷はまあまあと宥め。お願いしますと僕へ頭を下げた。
**
階段を登って、僕は白峰の部屋へ行く。いつもの通りに鍵の掛かっていないノブを捻って、僕は部屋の扉を開けた。まだ薄暗い部屋と、乱れたベッドの上の白峰。幽霊棟に越してきてから繰り返し見た情景がそこにあった。部屋に踏み込んだ僕は、白峰のベッドの縁に腰掛ける。
「白峰、起きてくれ」
「…………」
「白峰…」
声を掛けながら見上げた部屋の壁掛け時計が、示す時間は8時前。休日の白峰が起きる時間では到底なかった。
「……今日は日曜日でしょ」
案の定白峰が抗議の声を挙げる。
「覚えてたのかい」
「当たり前じゃない…ゆっくり寝れるのなんて今日くらいだもの」
「白峰、起きてくれないか」
「嫌」
白峰はばっさり切り捨てると、ベッドに深く頭を埋めた。僕は躊躇ったが、ベッドの縁から身を乗り出して白峰の体を揺すった。その拍子にマフラーがひらりとほどけて、白峰へと落ちそうになる。
「そう言わないで。カレーなんだ」
「……はあ?」
「久保谷がカレーだから白峰を呼べと」
「何それ。別に俺特にカレー好きじゃないんだけど」
少し興味を持ったらしい白峰が、僅かに身を起こして僕を見上げた。
「――あ、わかった辻村だ。昨日和泉がカレー食べたいって言ったからでしょ」
「うん」
「辻村はほんとに和泉が好きなんだから…もうみんな起きてるの?」
「うん」
「…じゃあ起きようかなあ…――ねえ」
「うん?」
「これ、どうしたの?」
白峰は僕のマフラーを掴んでにっこり笑った。
「それは、斉木が」
「斉木?てっきりどっかの女の子からでも貰ったのかなって」
「まさか」
「そっか。彼も本当に茅のことが好きだね」
「そうかな?」
「嫌いならこんなことしてくれないでしょう?」
身を起こす白峰に僕は手を貸して。着替えるという白峰を部屋に残して僕は食堂へと降りていった。するとちょうど、和泉が辻村へカレー皿を差し出しているところだった。
「煉慈」
「…和泉」
「なに」
「…お前、俺に何か言うことがあるんじゃないか?」
「何かって?味についての批評ならもうした」
「お前な――」
「煉慈」
「何だ!」
「僕はおかわりが欲しい」
「…………」
辻村は再び呆気に取られていた。和泉は再度要求するようにぐっと皿を差し出す。辻村は反射的にそれを受け取ってハッとし、「おかわり…」と初めて聞いた言葉のように反芻する。それからくるりと僕らに背を向けると、鍋と向き合ってカレーとご飯をよそい始める。
「…美味いなら美味いって言えよ天の邪鬼!」
「うん、ごめん」
「しょうがないやつだなお前は」
「ごめんね」
「全く…」
溜め息を吐いて振り返った辻村は、良く見せる難しい顔をしていた。仲直りは失敗したんだろうと僕は思った。辻村はカレーを和泉の目の前に置くと僕の方を見た。僕はなんとなくたじろぐ。辻村は不思議そうな顔をした。辻村はじっと僕を見たまま何か言いかけ――やめた。その視線が僕の後ろに向かって僕も振り返る。すると白峰が爽やかに下りてくるところだった。白峰は僕らを見下ろしておはようと言う。
「あ、いいにおい。今日はうまくいったの?」
「今日はってなんだお前」
「だって辻村の料理って大抵そこそこ…」
「白峰。お前は食わなくていい」
「食べるよお腹空いたもの」
食堂に下りてきた白峰はその雰囲気に怖じることなく椅子に腰を下ろした。僕も一瞬躊躇って、やはり白峰の隣に腰を下ろす。すると白峰は僕のマフラーを引いて、僕の耳元で囁いた。
「辻村機嫌いいね。うまく行ったの?」
「うまくいかなかったような…」
「そうなの?でもなんか嬉しそう」
「そうかな?」
僕にはさっぱりわからないんだが。白峰はマフラーから手を離すと、スプーンを手に取った。同じくスプーンを手に取った僕は、食堂を見渡した。するとぱちっと音が鳴りそうに和泉と目が合う。和泉はやがてスプーンを咥えたまま微笑んだ。僕の隣ではいつのまにか久保谷と白峰の会話が始まっている。辻村が火を止めてエプロンを外した。僕もマフラーを外す。カレーは悪くなかった。