ぬるりとした粘性の液体が、彼の顎を濡らすのを見ていた。まるで俺の無力さを見せ付けているみたいだ、と正常な思考はもはや失われている。そこは越えてはいけなかったんじゃない?ねえ。初めてじゃないか。床と彼を繋ぐ銀糸を見分けられるくらいの距離。

俺の前で―――吐くなんて。

蹲る真斗を見下ろして、俺はびっくりするくらい打ちのめされているのだった。「…まさと?」当然のように返事はない。それに俺はまた打ちのめされ――そして俺はやっと、自分がどれだけ酷いことを言ったのかと思い当たるのだ。そうだ、あの言葉が全部悪い。


「違うんだよ」口蓋に貼り付いた舌を剥がして口を開く。今更言い訳しても遅いけど。何か考えていないとこっちまで吐きそうだったから。「許してよ…」膝を付いた。その細い顎を掴んで、浅く口付ければ吐瀉物の味がした。舌先も痺れる強酸。言わなきゃ良かったと後の祭り。虐めたかったんじゃないんだ。俺は数瞬前の自分を嗤った。

「嘘だよ……」





あれから数日。またどちらからともなく距離を置いていた。
『せっかく仲良くなったのに、喧嘩でもした?』奴等は耳ざといことを言う。

「別にそんなことないさ」
『そうなの?』
「そもそも君たちが思ってるほど、仲も良くない」
『そう。。。』


相変わらず*曜日は早く帰れない。

そんな日は誰かの部屋で過ごした。冷めた気持ちで、名前も知らない誰かを抱いた。汗の甘い匂い。終わる頃には飽いてるのにね。
その後は決まって吐いた。誰かの唇の味より、中指と人差し指の味を良く覚えている。吐きだこができそうなことは心配だったが―――吐くことはやめられそうもなかった。ストレスの解消法を履き違えている。とても痛い。




「…少し痩せた?」
「お互い様だろ」
「まあ、…そうだが」
「うん……食べてる?」
「まあ、、、」
「あー…うん」

食べてもどうせ後で吐くんだ。真斗の箸を使う指先はどこか投げ遣りだった。
俺もそうだった。本当ならフォークを握るのも億劫でしょうがないけど、食べなきゃ死ぬのだ。生物は不便にできている。

「何かあった?」
「特に何も。神宮寺は?」
「普段通りだ」
「そうか」

会話が弾まないのはいつものことだ。いつも、がいつ始まったのか考えたい気分ではなかった。昔のこと考えたって、暗い気持ちになるだけなんだ。「なあ真斗」「何だ」「俺はね…」
「やめろ」真斗は箸を止めた。

「その話はしないでくれ」
「じゃあどんな話をしたいんだ」
「もっと下らない、生産性のない話だ」
「はあ」
「今更…」
「お前はどうなりたいんだよ」
「どうもなりたくないんだ」
「…………」

俺だってまだ揺れてるさ。このままずるずる続けるか、いっそすっぱりやめるのか――…でも、ねえ?
駄目なんだよ。*きになっちゃったんだ。ねえ。「……真斗はさあ」息を吐いた。「俺のことが*いなんでしょう?」




*曜日に部屋に帰って、彼の吐いているのを見ていた。トイレの扉に凭れて見ていれば、彼は便座を抱えたままちらりと視線を向けたが何も言わない。饐えた匂い。歳が歳なら煙草の一本も欲しい気分だった。なにか、胸のスッとすることが――ほしい。一本の蜘蛛の糸が、藁が、光明が欲しいんだよ。「なあ」真斗は振り返らなかった。「ねえ」聞いてよ―――「好きなんだ」その背中が微かに引き攣るのを見た。

俺は扉から背を離して、便座を抱えたその首根っこを掴んだ。引き剥がして、引き摺って、仰向けの腹に馬乗りになれば。泣き腫らした赤い目が見上げている。尖った顎がてらりと黄色に光っていた。急き立てられるように屈み込んで舐めれば息を呑む。
「や、め…」「好きだ」真斗は痛々しいほど眉を寄せた。ひゅっと鳴った喉の音。指で、掌で押さえると微かに震えた。「何がいけないんだよぉ…」びっくりするぐらい、情けない声が、出た。

「しょうがないじゃん。好きになっちゃったんだよ」
「…………」
「嘘じゃない」
「…………」

真斗は信じられないものを見る目で見ていた。まるでUMAにでも逢ったみたいだ。それこそが、拒絶なんだと良く解って、しにたくなる。それでも――好き―――とか(笑)


―――かと思うと。

「ッ――!」真斗は突然飛び上がって、俺を逆に押し倒した。頭を強かに打ち付けて星が飛ぶ。腹の上には人一人分の重しが。重ね合わされた両手は喉の上に乗っていた。完璧な体勢の逆転に驚く俺を、真斗が睨んだ。
「嘘吐き」ぎゅう。ピアノを引くあの繊細な指が、俺の首を締め上げているのだ。何度も触れた深爪の指が、今首筋に回っている。真斗は般若の形相で俺を見下ろしながら、冗談みたいに泣いていた。嗚咽と怒りで肩を揺らしながら、指はぎりぎりと食い込む。さらりとした透明な液体も頬に落ちて。このまま殺されても―――やっぱり、真斗のことが好きだ。


吐息だけで彼を呼んで、腕に触れれば眉をひそめた。痛々しいその眉間にキスしてやりたいよ。力を込めすぎて突っ張った白い腕。食い縛った唇も切れそうに白い…
…大した純愛じゃないか?……これも運命じゃないか?と思うと指は離れた。彼の指の温度だけが残って喉を塞いでいる。その頬がきらりと白く光っていた。

「真斗…」

咳混じりの声で呼び掛けても、真斗は両手で顔を覆ったまま何も言わなかった。その肩が微かに震えているのが堪らなく辛い。
何か言って欲しい気持ちと何も言わないで欲しい気持ちは半々だった。誤魔化されるくらいなら言葉は要らない。真剣な言葉なら欲しい。

この穴蔵から踏み出す一段が欲しかった。真斗だってそうだろう、足掻いている。一本の芦もない暗闇で、息の詰まる中で、出口を探してもがいている。

真斗も俺も、自分が嫌いで。だから鏡合わせのお互いが大嫌いで。でもそれが自分だから認めないわけにも行かず。傷の舐め合いは危いバランス。どちらかが憐れんだら終わり。そんな状態で好きだなんて―――冗談にしか、聞こえないだろう。それも酷く悪趣味な部類の。繊細な奴には相当だろう。「真斗」「…………」「好きなんだ、…よ」「うそ」「ほんと」「ああ…」「ほんとだよ」「……」「ねえ」

…引き寄せれば、その体は簡単に傾いだ。床に手を付いた真斗に伸びをして口付ければ。食い縛った唇を緩め嗚咽を吐く。隆起する白い喉に食い付いて囁けば、真斗は笑った。「お前なら戻さないかも知れない」「酷いな…」「ほんとさ」「冗談の方が良かった」「うん」

「…うん」もう一度頷けば真斗はぴんと付いた腕を崩した。俺の胸に顔を埋めて、それきり何も言わなくなる。ふにゃりと猫のように力の抜けた体。腕を回しても拒まれなかった。