『何でもかんでも、俺を優先することないのヨ?』


お前は俺の一部じゃないんだからさあ、とあの人は苦笑した。ポケットの中の指をパタパタ動かしながら、あの人は小さく唸る。

『…俺のことばっか見てないで、周りも見ねえと転んじまうぞ』
『――迷惑、ですか』
『迷惑ってんじゃねえけど…心配だよ』

俺が世界の全部じゃないよ、とあの人は頭を掻いた。

『……お前を好きなやつは、もっといっぱいいるからよ、』
『…………』

反論に口を開いて――言葉を発する前に俺は理解した。

――これはかれのことばではない。かれはこんなことをいわない――だれがいわせている?……だれの、ことばだ。



(……くそ、忌々しい)

ジュリオは唇を噛むと、頭を振って忌々しい――彼に取ってとても――記憶を頭から振り払った。いつもとりすましている顔に、酷く珍しく浮かぶ表情は苛立ちだった。苛立ちの原因はハッキリしている――……なぜ俺は今、最も嫌っている男と行動を共にしているのだろう。…あの人のためとは言え、今日は酷く気が乗らなかった。
ジュリオは苛立ちを隠しもせず、隣に座るイヴァンを睨んだ。何だよ、とばかりにイヴァンが片眉を上げる。

「――お前は、帰れ。俺一人で十分だ」
「…はァ?何言ってやがる。ジャン――…ボスの命令だろうが」
「…………必要ないものは必要ない。足手まといだ」
「あのな…」

しっしっと振り払う仕草をして、ジュリオは反論を追いやった。その視線はとうにイヴァンから外れ、今座るカフェテラスの、向かいに面するビルの入り口へ注がれている。表情はもう能面のような無表情に――聞く気はない、と拒絶のスタンス。イヴァンはジュリオを睨めつけて舌打ちすると、テーブルの上のホットコーヒーをがぶ飲みした。――マナーの欠片もないな。ジュリオは内心吐き気すら感じた。
…どいつもこいつもほだされて。俺とおんなじだったルキーノまで――……汚い雑種の血など、ファミリーに必要ない。
つい目付きが険しくなるのを、ジュリオは止めることが出来なかった。今日のターゲットには申し訳ないが、憂さ晴らしさせて頂こう。極めて惨たらしい方法で――殺してやろう。…この雑種に俺の恐ろしさを教えてやりたい。


『――おいバカ、こんなとこで、マズいって人が来たら――……』
『…誰も来ねえよこんな時間に。静かにしてろ』
『こっの……万年発情期が……!』

…ジュリオは扉の前、湯気の立つマグカップを二つ持ったまま硬直していた。時間は深夜。遅くまで仕事をしているあの人へ、ちょっとした差し入れを――……

『イヴァン!いい加減に…』
『嫌じゃねえくせに……嫌で、こんなんなるかよ、変態』
『――は、てめえだろ!ッの――あ、くっそ…ばかやろ……ッ』

ジュリオは状況を理解すると、くるりと踵を返した。夜の冷気に冷め始めたコーヒーを抱えて、足跡と気配を消して駆け出す。指が震えて、マグカップを何度も落としそうになった。
両親の情事を見てしまった時の子供のような、潔癖から来る嫌悪感を感じていた。

――……部屋に帰り付いた時には、シャツにはコーヒーの染みができていた。廊下に溢していたら不味いと思ったが、確かめる余裕はなかった。ついに取り落としたマグカップが、床にコーヒーの水溜まりを作った。



「おい、出てきたぞ」
「――見れば、判る。一々口に出すな」

ジュリオは吐き捨てるように呟くと、先に席を立ったイヴァンを追った。変な貸しを作りたくなくて、先に財布を出したイヴァンの手を押しやって、ジュリオはウェイトレスの手に札を押し付けた。イヴァンの小さな感謝の言葉もウェイトレスの熱っぽい視線もジュリオにとっては鬱陶しいものでしかない。――そんなものは欲しくない。俺が欲しいのはあの人だけ――だった。だったのに。ジュリオは唇を噛んだ。


狭い路地へ追い込んだその背中を、ジュリオは壁へと押し付けた。手にはいつもの刃の薄いナイフ。遅れて追い付いたイヴァンの足音を耳が捉えた。

「――お前、――だろう。最近うちのシマを荒らしている」

男は答えなかった。…と言うかジュリオの剣幕に押されて、答えることができないでいた。ガチガチと鳴る歯の音が酷く耳障りだ。

「……肯定と、受け取る。目障りなんだお前は……ファミリーを舐めた間違いは、死で清算しろ」

ジュリオはそう囁いてうっすら笑った。――やはり俺は、こう言ったタチの人間だ。下腹部が快楽を伴って重い。ジュリオは握り締めるナイフを、男の首筋に押し付けようとした。しかし――

「――おい、ジュリオ!」

それは、出来なかった。握り締めていたナイフがいつの間にかなくなっている。ジュリオが振り返ると、イヴァンは苛立った顔でナイフを握っていた。

「ボスは生かして連れてこい、って言っただろ」
「――『誤って殺してしまいました。申し訳ありませんでした』」
「お前な…!!」
「五月蝿い。……だから、お前を連れてきたくなかった…鬱陶しい」

ボスはここのところ妙に、ジュリオとイヴァンを組ませたがった――…一人で済むようなこんな件ですら。あの人が何を考えているのか全く解らない、とジュリオは思った。あの人を籠絡したこの忌々しい犬を、俺は殺したいほど憎んでいるのに。



『組む?――俺と彼奴が?』
『そう、暫く一緒に居てやってくんないかな』
『嫌だ』
『おい、イヴァン…』
『お前な、わかってんだろ?彼奴俺のこと、殺したいぐらい嫌ってるんだぜ?――どっちのためにもならねえよ』
『なるって――……俺ジュリオにさ、もっと周り見せてやりてえのよ…で、お前がショック療法』
『あのな……ああ、くそ』

イヴァンは苦い息を吐くと、腕の中のジャンを更に強く抱き締めた。…マンマに縋る子供みたいだ、と笑うジャンをイヴァンは小突いた。

『――……彼奴を手懐けるのは、お前を俺のモンにするより難しい』
『できるって。お前なら』



「助手席は指定席なんだ。悪いな」

あまり申し訳なくなさそうにイヴァンが言った。――頼まれても座るものか。ジュリオは渋々、イヴァンのセダンの後部座席に尻を埋めた。…堅い。安物だなと内心ジュリオは嘲笑する――

……ああ、ボス。なんで俺じゃなかったんですか?
ジュリオは後部座席からイヴァンの背中を見つめる。バックミラー越しに一瞬目が合って、どちらからともなく離れた。
――俺の方が強い。俺の方が賢い。俺の方が金があって、俺の方が貴方を思っている――

「……ジュリオ。お前が俺のこと気に入らねえのは解ってる」
「…………」

無表情のジュリオをバックミラー越しに見て、イヴァンがらしくもなく苦笑を浮かべた。

「ジャンをあんま困らせてやんなよ……――妬けるからよ」
「…………」
「お前に悪いとは思わねえ。先に欲しがったんだから、なんて言うほどお前も子供じゃねえだろう?ジャンがお前にくれてやれるのは、ジャンだけじゃない」
「…………」
「貰ってやれよ」

そう伝えたきり、イヴァンは黙った。セダンは人並み行き交う昼のデイバンを滑るように走った。ジュリオがバックミラーを覗いても、もう視線は絡まなかった。イヴァンはどこか穏やかな顔をして、デイバンの賑わいを徐行運転で眺めている。こんな顔もできるのか、とジュリオは胸を突かれた思いだった。自分が知っているイヴァンの顔と言えば、いつも怒り顔――自分がいつもそんな顔をしているからか、と気付いて愕然とした。いつもむっつり怒っている俺に、誰が笑いかけてなんかくれるだろうか。『周りも見ねえと、転んじまうぞ』あの人が耳元で囁いた。



「――ほら、着いたぞ」

イヴァンは館の正面にセダンを停めた。イヴァンがセダンを降りると、それに気付いた黒服たちが走り寄ってくる。

「トランクに押し込んであるから、丁重にお出迎えして目が覚めたら連れてこい」

イヴァンが黒服に指示するのを、ジュリオはシートに座ったまま眺めていた。…自分は今までどれだけ、周りを色眼鏡で見ていただろうと思う。いつまで経ってもセダンから降りてこない、ジュリオを見てイヴァンが変な顔をした。

「…何やってんだ。シートにケツがくっついちまったのか?」
「いや…」
「じゃあなんだよ。お坊ちゃんはドアを開けてもらえねえと車から降りれねえのか?…しょうがねえな」

イヴァンは呆れた溜め息を吐くと、後部座席のドアを開けた。勿論そんなことはなかったが、どう返していいかわからずジュリオは無言にセダンを降りた。黒服がトランクから引きずり出しているのは、先ほど殺しそびれた男だ。男が引きずられて行くのを見送ってから、ジュリオはイヴァンへ視線を向けた。
――何か、言わなければいけないような気がした。しかしそれが何のかはわからない。
ジュリオが言い淀むのを察したように、イヴァンが口火を切った。

「この後、暇か?」
「―――ぇ」
「どうせ、奴が起きるまですることもねえんだ。暇か?」
「…………」
「暇だな」

イヴァンは悪戯っぽくにやりと笑った。ジュリオは困惑した。イヴァンがそんな顔もできるのを知らなかったからだ。

「アイスクリーム奢ってやるよ。コーヒーの礼に奢らせろ」
「……何で、俺がそういうの好きだって知ってる」
「見てればわかるだろ?――店のオンナから聞いて行ってきたが、まあまあ美味かった。一人で行ったんだぜ?気まずいのなんなのって……男二人ってのもアレか。嫌か?」
「…別に」
「そうか」

イヴァンはジュリオを後部座席に押し込むと、自分も運転席に乗った。セダンは館を後にして、またデイバンを滑るように走り出した。
イヴァンはジュリオが返事をせずとも気にせず、好きなように喋っていた。気を遣われているらしいのが、よくわかった。


――あの人は、こうやって籠絡されたのか。