「鴇也さん」
 薄い障子の向こうから、ぱた、ぱたと足音と共にこの上なくいとしい声が囁いていた。
 ぱた、ぱたと言う音は廊下を歩く音だ。スリッパを履いているわけでもないのに、歩き方がいいのか歩くたび規則正しい音を立てる。ときやさん、ときやさんと俺を呼ぶ声は鈴の音のように心地良かった。どれだけ遠くにいたって聞き逃すことはなく、ついつい返事を先延ばしにしてしまう。最後の最後まで聞いていたくて。
「――鴇也さん。ここにいたんですか」
「ふが」
 心地よさに包まれているうちに、俺は二度寝としゃれこんでいたらしい。いつのまにか障子は開いていて、寝転がったままの俺を困り顔が見下ろしている。
「まだ寝てたんですか……」
「起きてた」
「寝てたじゃないですか」
「起きてたもん!!!」
 まあ別に嘘でもなかった。けど信じられてるかどうかって言うと、多分信じられてないだろうが。
 仁介は障子に手をかけたまま、やれやれ、と笑みを浮かべる。
「鷹志さんが呼んでますよ」
「はあ? 鷹志ィ?」
「はい」
 チ、と舌打ちをすると、仁介は気まずげに眼を逸らした。俺と鷹志の仲が悪いどころか最悪なのは、この家どころかこの村で知らない奴など一人もいない。その板挟みになる仁介が可哀想だと言えばそうなんだが、俺は息をするように鷹志が嫌いだし向こうもそうだ。同じ血が流れてるのが不思議なくらいに気が合わない。
「どうでもいいわそんなん」
「鴇也さん……」
「自分が来いって言っとけ」
 吐き捨てて、俺は仁介と逆方向に寝返りを打った。追い縋るように背中が視線を這うが、やりたくねえことはやりたくない。躊躇の間があって、やっと障子を閉める音がする。足音もだんだんと遠ざかって行き、気配も遠くなっていく。こっそり障子を開けて窺がうと、去っていく後姿が見えた。
「……仁介」
 もちろん、振り返りはしない。お前が俺を呼んだなら、どこにいたって俺にはわかるのに。
 仁介が比良坂の家を失い、久藤になって十数年。ここに来た時の仁介はほんの子供だったって言うのに、どうしてかとても『わきまえ』ていた。何もかも無くしたことが、不安感を駆り立て逆に力となったのかもしれない。
 仁介はうまく取り入った。この腐りきった家の中で、自ら率先して腐り、俺が嫌悪して止まない家族たちともうまくやっている。今のところ顕現には至れていないが、それでも酷く責められないほどには、仁介はこの家での地位を得ていた。最近は鷹志の腰巾着に熱心らしい。
 なあ、仁介。もう見えなくなった背中へ、俺は唇だけで囁く。お前がもっと弱かったら、そう強かじゃなかったら。
 腕の傷は、思ったほどには酷くなかった。子どものころは世界の終わりのように、俺もお前も思ったけれど。高校生の今では、違和感はあるが生活に支障をきたさない程度には動かせる。
 この傷がもっと深くて。俺がもっと可哀想で。お前がもっと罪を感じていたら。なあ、仁介。

 お前が俺を、兄さんと慕うことも、あったんじゃないかと思うんだ。鷹志じゃなくて俺をさあ。
 俺たちはこの腐りきった村を出てて、まるで普通の兄弟みたいに、笑いあってたんじゃないかって。

 けどもう遅いだろう。あの時の傷が、浅かったことを今はただ呪うだけで。
 五月の夕空に、ありもしない幻想を見た。