九十九山は俺達が来てから、二度目の夏を迎えていた。
ジワジワと五月蝿い蝉。突き刺さる日射し。
世にはそれが嫌で嫌でしょうがない!と言う人も山ほどいるんだろうけども、俺達は全然嫌ではなかった。むしろ、わくわくしているくらい。
今年の春に、兄さんはめでたく榛原大学へと進学した。
大喜びする俺に反して、兄さんはどうってことねえわこれくらい!と笑って周囲からの厳しい視線を浴びていたけれど(掲示板の前でそんなことするなよ…)、その手が密かに、喜びに震えていたのを見過ごすほど俺は鈍くない。恥ずかしがるだろうから、一生言わないであげるつもりだけどね。
大学へ進学した兄さんは中々に順風満帆な日を過ごしているそうだ。かーなーり、もてているらしいってのは兄さんの口から聞いた…あっそう。なんて返したけど、正直気が気でない。
俺はと言うと、兄さんの指導のもと、兄さんと同じ大学を目指している。
兄さんが仁くんが落ちたら俺退学するから!なんて本気で言うもんだから、プレッシャーは倍だ……まあ、嬉しい、んだけどさ。
それと俺は、西川と友達になった。
俺は高校生最後の夏。兄さんは大学生最初の夏。……俺達が恋人になって、初めての夏。
わくわくしない方がおかしいだろ!?
……なんて心踊らせていた俺に、晴天の霹靂。核弾頭。俺に取って最悪の爆弾。わくわくを一気にぶち壊したそれ。
無慈悲な爆弾、それを落としたのは、……兄さんだった。何の皮肉か、何の因果か!
「なー仁くん」
「何、兄さん」
俺はオレンジページを捲る手を止めて顔を上げた。ソファに気だるく座っていた兄さんが、ここ、と自分の膝を叩く。俺は脊髄反射のように、テーブルの椅子から腰を上げた。
「よし」
大人しく兄さんの膝へ腰かけると、兄さんが満足げに頷いた。
何度座らされても、気恥ずかしさは一向に薄れることはない。仁くんはいい子だなァ、とにやつく兄の声を塞ぎたい衝動に駆られる。
「なァ、仁くん」
「……なに」
膝に腰かけたまま首だけ振り返ると、ばちっと視線が合ってどきりとした。
「仁くん」
「……だから、なに」
会話する度に、吐息が吹きかかって心臓が痛い。俺の脈拍はもう破裂しそうなくらい早いのに、背中に触れる兄さんの脈拍が、ひどく穏やかなのが腹が立つ。
どうにか平常心を装って、兄の言葉を待つ俺。兄さんはゆっくり瞬きした。唇を湿らせた舌の赤さが目に、焼き付く。……そして兄さんは、
「里帰りしよう」
「……は?」
「良くね?なんかさ、カップルっぽくて。両親にご挨拶ーみたいなさ」
「…………」
「仁くん?」
「……は」
「あ?」
「はああああああああああああ!!!!??????なっ、何言ってんだあんたは!!!??????」
爆弾を落とすにもほどがあらあああ!!!爆弾も爆弾。もう核弾頭レベル。テポドンもびっくり!!!!!
「仁くーん、落ち着こうかー」
「これが落ち着いていらいでか!!あんたは何言ってんだ、……ほんと…………」
「仁介」
兄さんが後ろから、俺を抱き締めた。嗅ぎ慣れた兄の匂いが鼻孔をくすぐる。兄さんは俺の肩口に顔を埋めて、宥めるように言った。
「俺の両親にじゃねえよ。お前のお袋さんと親父さんにさ、挨拶したいんだわ。仁くん生んでくれてありがとうってさ」
「……兄さん」
「俺めっちゃ感謝してんだ。幸せなんだ。お礼、したいんだ。……なあ、いいだろ?」
そう言って顔を上げた兄さんの瞳には、縋るような色があった。……ずるい。ずるいよ。そんな目をされて、断れる訳がない。
「いつ?」
「仁くんが夏休み入ったら、すぐ。日帰りで、墓参りだけ」
「…わかった」
「……いいのか?」
うん……。俺は兄さんへ頷きながら、内心複雑な思いだった。
兄さんの気持ちは、すごく嬉しい。それに俺だって、母さんと父さんの墓参りはしたい。
けど。
…怖かった。あの村が、怖い。怖くてたまらない。
彼処は俺の、棄てたいもので一杯だった。できるなら箱をして、もう見たくない痛い傷痕。
黙り込んだ俺の背中を、兄さんがそろりと撫でた。反射的にびくりとした俺を、兄さんがにやっと見上げる。
俺は複雑な思いを抱えたまま、兄さんと長い夜を過ごした。
7月21日。
携帯のディスプレイに表示されている文字を見て、俺は密かに息を吐いた。
なんで密かにって、ほら。
俺は横目に隣を見た。途端にばちこーん、と視線が合う。
「あ?どうした仁くん。やっぱ欲しくなったのか?兄さんの食べさせてほしいのか?
さっきの、やっぱ後悔してんだな……ほら、食えよ俺の。好きだろ、仁くん?いつもうまそーに食って…」
「やめろ!卑猥な言い方はやめろ!そしてその卑猥な笑みもやめろ!
ちっ違うんです車内のみなさあああん!!!!」
「仁くん。落ち着こうか」
アイスのスプーンを俺の口に突っ込んで、兄さんはのほほんと笑った。
このやろう…。
ふわりと、バニラの甘さが口の中でとろける。
車内販売のアイスには昔ながらの木のスプーンが付いていた。プラスチックじゃなくて、木。
……こう言うのって尚更なあ…と、俺がちょっと、むらっと来たのはここだけの秘密である。
煩悩やら何やらを押し込めて、俺は兄さんにスプーンを手渡した……と、
「……おい」
「…ん、何だい仁くん」
「やめろ、やめてください……」
俺は頭を抱えた。赤面し顔ごと目を逸らした俺に見せ付けるように、兄さんはスプーンを舐めて、…吸った。ああああもうこの人はああああ!!!!
「仁くん、連れション行こうか」
「勘弁してください…」
色んなイミで。
***
7月21日、夏休み、最初の日。
俺達を乗せた列車は、俺達を生んだ町へ向けて走っていた。
町が近付くにつれてテンションが跳ね上がる兄さんと駄々下がりする俺。
嬉しそうな兄さんを見るのに苦痛すら覚えたが、俺は努めてその感情を隠した。
嬉しい。嬉しいんだ俺だって。兄さんの気持ちは今すぐ抱き締めたいくらいに嬉しく、いとしい。…のに、俺はこんなにも、帰りたくないと思っている。
俺が嫌がっていることに気付いたら、兄さんは自分の希望をねじ曲げて押し込んで、帰ろうとするだろう。
それは絶対にあってはならないことだ。この一日何としても、明るく振る舞わねばならない。
……と思うのに、急降下する気分は止められない。
幸いなことに兄さんの興味は、今窓の外へと向いていた。俺は瞼を伏せた。
今は、眠ろう。何もかも忘れて……
***
夢を見た。それも、夢だってわかる夢。
何でって、俺は17歳なのに兄さんはあの頃の兄さんだったから。
『じんくん』
兄さんが俺に、手を差し出した。陰りなどない心からの笑顔は、今と全く変わってやいなかった。……が、
『じんくん、いこう!』
兄さんは躊躇する俺の手と無理矢理指を絡めると、俺を引っ張って走り出した。
その力は子供とは思えないぐらい強い。俺は兄さんに引き摺られ森の中を駆けた。
ジワジワと蝉が鳴く。ざわざわと木が揺れる。遥か後ろから七里の声が聞こえる。
「……兄さん、やめて」
兄さんは振り返らない。
「駄目。そっちは駄目だ。そっちは……」
俺は精一杯手を振りほどこうとした。が、むしろほどこうとすればほどこうするほど、拘束はきつくなる。
「……やめて。やめて、お願いだから、そっちにいかないで、駄目、駄目…」
そっちには、あれがある。あれが、待っている。あれが、兄さんを、兄さんの腕を――……
俺を掴むこの左腕を、
「仁くん?」
「駄目」
「起きないとちゅーしちゃうぞ」
「駄目」
「仁くーん?…ん、イタダキマス」
「お兄ちゃんそんなことしちゃらめええええ!!!!!」
「ふがっ!!??」
「あだっ!!??」
目を覚ますと、天井があった。木で出来た、良く言えば年期の入った、…悪く言えばぼろい天井。
鈍痛にひりひりする額を押さえて周りを見渡すと、ごろごろと悶絶する兄さんが居た。
目が合うと涙目に吠える。
「何すんだよぉ!兄さんは仁くんをこんな石頭に育てたつもりはありません!!!」
…どうやら俺が夢から飛び起きた時に、ちょうど俺の顔を覗き込んでいた兄さんと額がトラフィックアクシデントを起こしたようだ。
「損害賠償として、でこちゅーを要求します」
「何を言ってんですかあなたは…被害者は俺です」
「違います!!俺です!!だっておでこ痛いもん!!仁くんが舐めてくれないとおでこ割れちゃう!!!!」
「だったらそんな額割れてしまえ!!!!!!」
……なんて言いながらもやってしまうあたり、俺も、なあ…。
「ん、おはようのちゅー」
お返しとばかりに、兄さんが俺の唇に触れるだけのキスを落とした。
それきり離れていく唇を密かに名残惜しく思いながら、俺は口を開く。
「ここは?」
「駅のホーム。着いても仁くん寝てたから、俺がお姫様抱っこで下ろさせていただきました」
「ああああああああんたはまたいらんことををををを」
してやったり、と笑う兄さんはやっぱりかっこいい…じゃない。起きてなかったのがもったいな…じゃ な い !!
「今度、そう言うプレイしてみようか。姫と従者。もえるだろ?」
「どっちのもえかは訊かないであげるから兄さんもうやめてええええ」
そう言ってにやっと笑った兄さんは、従者と言うよりも魔王だった…
「うなされてたみたいだが、大丈夫か?」
「大丈夫だ。問題ない」
「一番良いのを頼む」
「弟の敵をトルノデス……じゃ・ない!!!」
ごろごろ悶絶する俺を兄さんは笑って、じゃ、行くか、と腰を上げた。
自分の荷物と俺の荷物を、当然のように持っている。俺も慌てて立ち上がった。
「兄さん、自分で持つから!」
「いいのいいの。それともなんか要るものでも……えっ。女の子の日なの?」
「ちゃうわあああああ」
「安全日か」
「セクハラも大概にしてください…」
兄さんの将来が心配です。と頭を抱えた俺を、※ただしイケメンに限るの権化である兄さんはまた呵々と笑った。
「ま、サクッと行ってサクッと帰ろうぜ。……まじで大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃなけりゃまたお姫様抱っこしてやるぜ?」
「是非お願いしま……じゃ・ない!!!」
俺は深い溜め息を吐くと、兄さんより一足先に無人改札へと向かった……
「相変わらずシケてんなあ。コンビニもねえのかよ」
「まあ九十九に行くまで、コンビニが何処にでもあってしかも24時間営業だなんて都市伝説だろって俺達思ってたけどね」
「全くだ。しかし行って帰ってみるとコンビニがないこっちの方が都市伝説くさい…」
「言えてる」
改札を出た俺達は、畦道を俺の両親の墓目指して歩いていた。
車の音も排気ガスも、高層ビルも洒落た喫茶店もない。あるのはひなびた商店と山。田舎だなあ、と再確認する。
「仁くん大丈夫か?」
先程うなされてたいた俺を、兄さんは気遣って何度も訊いてくれる。
その言葉に気恥ずかしさとくすぐったさを覚えながら、…やっぱり嬉しい。
「うん。大丈夫」
「そうか。お前無理するからなあ、しんどくなったらちゃんと兄さんに言うんだぞ」
「うん、兄さん」
そうか。兄さんは笑うと、俺の髪をくしゃっと撫でた。…子供扱いして、もう。
他愛ない話をしながら、畦道をのろのろ歩く。田舎の夏は都会より涼しいと言うけれど
、暑いのには変わりない。
俺の両親の墓がある墓地は駅から結構遠くて、歩いて行くと結構かかる。それに、…久藤家の敷地にできるだけ近付かないよう、遠回りして向かっているから尚更遠い。
どちらがそうしようと言い出したのでもなかった。敢えて口に出さなくても俺達はもう、そうするように出来ていた―……
九十九の駅を出たのが既に昼過ぎだったせいか、墓地に着いたときはもう、日も暮れかけていた。磨き込まれた御影石が、オレンジの光を弾く。
茫然とする俺を置いて、兄さんが墓前にしゃがみこんだ。
「……お久し振りです。おじさん、おばさん」
兄さんは小さく頭を下げると、鞄の中から仏花を取り出した。やけに荷物が多いな、と思っていたら、そういうことだったのか、と今更気付く。
「仁くん」
兄さんが振り返って俺を見上げた。俺は吸い寄せられるように兄さんの隣へ立つ。兄さんが立ち上がって、俺の肩を抱いた。
「俺達、こう言う関係になっちゃいました。よって比良坂の血は絶えちゃうんですけど、まあ、その分仁くんは俺が幸せにするんで、許してください」
そして兄さんは見せ付けるように、俺の頬に軽く口付けを落とした。恥ずかしさに俺は拘束を振りほどこうとしたが、兄さんは笑うばかりで放してくれない。
「ほら、仁くん」
「なななななんですか」
「……言うこと、あるよなァ?」
「何を」
「誓いの言葉だよ」
「結婚式じゃあるまいし…」
「あ?これで事実婚だろ?解ってなかったのか?」
兄さんはまたにやっと笑って、ぽかんとする俺の唇へ口付けを落とす。
それからぱちっと悪戯っぽくウインクをされて(似合うなんて恐ろしい男…!!)、それでやっと、俺はことの重大さに気付いた。
「ええええええええええええ」
「仁くん。落ち着こうか」
「これが落ち着いていられるかあああ!!!……ああ、もう……!」
困った人だ、…ほんとに!
「仁介」
兄さんはいやに穏やかに笑うと、俺の肩を抱く手に力を込めた。
な?と促されては、俺はもう口を開くしかない。ああ、……もう!!!
「……あ、あの、久し振り、父さん母さん」
「うんうん」
「俺は今、その、」
「うんうん」
「…………」
「うんうん」
「…………」
「ん、どうした。仁くん」
(間)
「兄さんは俺の父さんか!!母さんか!!!!!!!」
「兄さんは仁くんの兄さんであり恋人です!!!!旦那です!!!!!!!!」
「ああああああもう嫌だあああああ兄さん嫌だああああはずかしいいいいいいいい」
「嫌んなるくらい好きだろ?」
「あああああ……もう…………好きだよ……大好きだよ……」
「よしよし」
兄さんは心底嬉しそうに笑うと、俺の髪を痛いくらいに掻き乱した。真っ赤になっているであろう顔を見せたくなくて俺は俯くのに、兄さんは許してくれない。
両手で俺の頬を挟んで、あの、悪どい、高飛車な、俺の一番好きな笑みを一つくれる。
「病める時も健やかな時も、兄さんを愛し続けることを誓いますかァ?」
「も、勘弁…」
「だァめ。仁くん、誓いますか?」
「うう………あーもおおおお!!!誓います誓います誓います!!!愛してます!!!!!」
「よォし!!!!」
そう言って俺の唇へ、やっとお熱いのを一つ。
あんたは水ポケモンでしょ!!あーもう!!!炎ポケモンのお役御免だ!
俺はわざと大袈裟に深ぁく溜め息を吐いて、兄さんを見上げた。目が合うと、兄さんはまた穏やかな笑みをくれる、
言いたいことは、山ほどあった。照れ隠しだとか意地悪だとか恨み言だとか願いとか好きだとか何だとか、何から言って良いかわからないくらい言いたいことがあったのに――……
「…………ぇ?」
すべて、消えた。
すべて、ある、聞き慣れた音に、踏みにじられた。
「仁介?」
腕の中、急に身を強張らせた俺に、兄さんが疑問の声を掛ける。俺は兄さんに警告の言葉を返そうとしたが、…出来なかった、声がでない。小さく首を振るのが精一杯。
「おい、一体どうし――」
兄さんは、言葉を言い切ることが出来なかった。判ったのだ、兄さんにも。
……なんで。ここに。
ずりっ、…と、何か重たいものを、引きずる物音。
それは一定のリズムを保ちながら何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も続き――……此方へと近付いてくる。
兄さんの背後から迫るそれが、俺にははっきり見えた。先程とは全く違った理由のために、鼓動が速くなる。
理由は、恐怖。長年かけて植え付けられたその効果を、実感する。
長い手足。艶やかな髪。背は兄さんよりも高い。相貌は冷やか。切れ長の目。不遜に笑む唇。兄さんに負けずとも劣らない完璧な美丈夫――完璧?…いや、一点を除くならば。痛々しく引きずられた、左足を除くならば、完璧。
幼き日に、水明に歪められた左足を除くならば。
たかし、さん。
そう呟く兄さんの声は震えていた。
久藤鷹志(くどうたかし)。
名門久藤家の長男として、久藤家の期待を一身に背負って生まれた男。
…いや、期待なんて生温いものじゃない。それは重圧だった。この世に生まれ落ちたばかり、まだ何も掴めないほど小さな掌をした赤子の頃から、一族の重圧を背負わされてきた男。
鷹志さんは幼い頃からプライドの人だった。努力の人だった。久藤家から押し付けられる無理難題を、歯を食い縛って、文字通り血を吐いてこなしてきた強い人だった。自分にも他人にも妥協を許さない、凄い人。それが俺が鷹志さんへ抱いていた印象だった。
俺が久藤家で暮らすことになった時も、鷹志さんは凛としていた。口さがなく言えば、俺に興味がなかった。俺はそんな鷹志さんが嫌いではなかった――……変に、干渉されるよりずっと。
しかし後から思ってみれば、鷹志さんは俺に興味がなかった、と言う訳ではないのだろう……多分、興味を持つ余裕がなかったのだ、自分のことで手一杯で――……
努力家と天才では、どちらがその面で素晴らしいかと言うのは、良く言われる問いだ。
努力を怠った天才・兎が努力家・亀に負けてしまう、なんて昔話もあれば、長年こつこつと努力を続けてきた努力家が、あっさり天才に抜かれてしまうと言うこともある――……
そう、鷹志さんを決定的に追い詰めたのは、兄さんだった。
久藤家始まって以来の天才。生まれ持った神通力は幼子にして大人の誰にも引けを取らず…
鷹志さんは焦っていた。兄さんが生まれる前からずっと、今までに積み上げてきた努力を、天才によって一気に瓦解させられるかもと言う恐怖。瓦解はすなわち、鷹志さんのアイデンティティーの崩壊をも意味しているとなるなら、焦らない方がおかしい。
久藤家の興味は、既に兄さんへと移り始めていた。
今すぐに形勢を、なんとかこちらへ引き戻さなければ、大富豪よろしく、大貧民へと一気に引きずり落とされるのは俺だ――……
そして、あれが起こった。兄さんが水明を得、鷹志さんが全てを失った日。
焦りのためか、万全の準備を欠いた召還は、久藤家崩壊の危機を起こした。兄さんが水明を調伏していなければ、久藤家はもう跡形もなく水明に食い荒らされていただろう。
年若にして、水明を調伏した稀代の神官。久藤家は兄さんを絶大な賛辞と共に祝福した。その興味はもう、鷹志さんにはない。久藤家を崩壊の危機へ貶めた、かたわなどにもう興味はない――……
鷹志さんは、壊れてしまった。
「久しぶりだなあ、鴇也――……と、ああ、」
鷹志さんは俺を横目に見て、くつくつと笑う。
「お前まだそんなんと遊んでんのか?久藤家の品性が疑われるから、止めろって言ってるじゃないか――……おい、そう睨むなよ。俺達兄弟じゃないか」
降参降参、鷹志さんはひらひら手を振って、また嫌な笑みを浮かべた。
嫌に濁った瞳。それに、あの凛としていた鷹志さんの面影は全く見受けられなかった。
「……鷹志さんこそ、いい加減薬なんて止めたらどうです。久藤家の品性が疑われますよ」
「はあ?」
鷹志さんは目をまんまるに見開いて、子供がするように首を傾げた。そしてジーンズの尻ポケットから、ピルケースを取り出して、兄さんと見比べて問う。
「久藤家が今更俺に、何を求めるって言うんだ?」
言葉を失った兄さんに、鷹志さんが肩を竦めて見せた。まあ、いいや。
「じゃ、行こうか」
鷹志さんがにこりと笑う。
「車がある」
「……何の話ですか」
「ん?里帰りに来たんだろ?俺もこれから向かうからさ、乗ってけよ」
車ならすぐだよ、と鷹志さんは笑う。俺達はいつの間にか、完全に鷹志さんのペースに巻き込まれていた。鷹志さんの中で、俺達が里帰りすることがもう決定していることに愕然とする――……
「鷹志さん、悪いけど俺達…」
「おいおい。まさか行かねえってんじゃないよな?」
鷹志さんがわざとらしく、溜め息を吐いた。と、思ったら、次の瞬間には笑みを浮かべている――……ぞくり、とした。
「みんな待ってるよ、なあ、寂しかったよ、二人がいなくてさあ……なあ、仁介くん?」
笑み。…本当に笑みなのかこれは。視覚は笑みと認識しているのに、心が拒む。
もう、口は笑っているのに目は笑っていない、とかそう言う問題じゃない。見詰めていればいるほどどこが笑っているのか判らなくなってくるが、それは笑みなのだ……気持ち、悪い。
「仁介くん、顔色が悪いけど大丈夫かい?やっぱり家で休んだ方がいいよ、なあ、鴇也――く、くくっ、っはははははははははははははははははは……」
***
そして俺達は、もう二度と跨がないと誓った久藤家の敷居を、再び跨いでいた。
古木でできた重厚な門構え。久々に受けたその圧迫感に、足がすくんだ。
…ふと、掌に温かいものが触れた。門から目を逸らして手を見下ろすと、兄さんの指が、俺の指に絡んでいた。目が合うと、兄さんは心配すんなと笑う。俺も強張った笑いで返した――先に門をくぐった鷹志さんが、早くおいでと笑った。兄さんが門をきつく見据えて、俺の手を引く…
それから俺達三人は、真っ先に兄さんのお父さんとお母さんに引き合わされた。
しかし、三人と言っても、二人が気にしたのは兄さんばかりで、俺と鷹志さんは完全に無視されていた。二人が兄さんに質問し、兄さんが答えると言う状況が酷く長く続き、話が終わった頃には外は真っ暗になっていた。ので、泊まっていけと言うことになり、俺達は元々の部屋に通された――……のだが、
「…………」
部屋は、俺が出ていったときと何も変わってやしなかった。変わってることと言うなら、机や、床や、窓の縁などに埃が降り積もっているくらい。きっと俺が出ていってから一度も、この部屋に誰も踏み入れていないのだろう…多分、いい意味ではなく。
必要なものは九十九へ持って行ってしまっているから、室内はひどく殺風景だった。もう帰ってくる気持ちなどなかったのに、と思うと微妙な気持ちになる。
ベッドに倒れ込むように寝転がって天井を見上げて、やっと、――……帰ってきたのか、と実感した。部屋も、叔父さん叔母さんも、家も、景色も何も変わってやしない。夏の田舎の時間はひどくゆっくりで、俺の感覚を狂わせた。
――……もしかして、九十九での出来事なんて、全て俺がこのベッドでこの部屋で見た夢なんじゃないか?なんて考えさえ浮かび上がってくる…
「…………」
ひどく、疲れた。瞼を伏せると、睡魔はすぐに襲ってきた。
感覚が曖昧になって、思考が散漫になって、身体がだるくなる。
睡魔に抗う必要は感じなかった。どうせこの家で、俺がすることなんて、昔から、ないのだ。際限のない自由時間を持て余すくらいなら、眠ったほうがいい。
夢は見なかった。
***
「仁介くん、ちょっといいかな」
こつこつとノックの音がして、俺はベッドから身を起こした。夢現から引き戻された時特有の虚脱感。
「寝てる?」
「……起きてます」
そう言った俺の声は、寝起きのせいで酷く掠れていた。同じことを感じたらしい扉の向こうの、鷹志さんが小さく笑う。俺は軽く咳払いをして、立ち上がって扉を開く。
「何ですか?」
「ちょっと頼み事があって。いいかな」
「はあ…」
俺の曖昧な頷きを、鷹志さんは肯定と受け取ったらしい。嬉しそうににこっと笑うと、踵を返して歩き出した。俺が欠伸を噛み殺しながら着いていくと、そこは鷹志さんの部屋だった。鷹志さんが扉を開いて、どうぞ、と笑顔に顎をしゃくる。
「棚の上の本が取れなくてさ、…この足じゃ、台にも乗れない」
棚の上を指で差して、鷹志さんは苦笑した。俺は思わず鷹志さんの足を見て、いけないと思ってすぐ目を逸らした。そんな俺を見て、鷹志さんが穏やかに笑った…おや、と思う。
子供の頃そんなことをしたら、鷹志さんは強かに俺を打ち据えたものだったのに。鷹志さんも変わったのだろうか、と思う。
「で、悪いんだけど」
「…あ、はいわかりました」
物思いに耽っていた自分に気付いて、俺は慌てて椅子を引き寄せた。それを棚の前に置いて、椅子へ登る…と、本は簡単に取れた。俺は本を片手に持って、椅子を降り――……る!?
不意に時間がゆっくりになって、俺は足を踏み外したのだとわかった。棚に縋りつこうとして、本が邪魔をする。あっと、駄目だ、これは――……
「おっと!」
「すいませ…」
「や、いいのいいの」
鷹志さんが俺を抱えて苦笑した。俺と鷹志さんは、鷹志さんが俺を抱き抱えた状態で床に寝転がっていた。鷹志さんが俺を抱き止めようとして失敗し、結果いっしょくたになって床に転がったようだった。…足が不自由な鷹志さんが、バランスを取るのは難しい。
「仁介くん、怪我は」
「大丈夫です。鷹志さんは」
「大丈夫。ちょっと頭打ったくらい――……まあ、あれだよね」
くつっ。鷹志さんが、笑った。
「あはは、椅子の高さくらいでよかったね」
「え」
「もっと高い所から落ちられてちゃ、頭打つくらいじゃ済まなかったねって。ああ、怒ってるんじゃない、感想。」
――……何を言ってるんだ、この人は?
「や、どうしたの仁介くん急に静かになってさ、はは、怒ったの?どうして?ああ、本?ありがとね助かったよ?これで満足?」
そして鷹志さんは悪意そのもの、としか言えない笑みを浮かべる。もっと余裕のある誰かなら、相反する感情を浮かべられるなんて器用だな、なんて感想を抱いたりするのかも知れないけど、俺が感じたのはやはり、恐怖だった……俺がこの家で生きてきた間に学んだこと、それは色々あるが、一番はそう、
鷹志さんに逆らってはいけない。
鷹志さんを怒らせてはいけない。
あまつさえ、鷹志さんを侮りなんてしたら――……
油断した。先ほどの穏やかな笑みは、俺を油断させるための狡猾な演技でしかなかったのだと今更気付かされる。身を強張らせた俺を、鷹志さんがきつく抱き締めた。
「どうしたの?落ちたの怖かった?俺は大丈夫だよ…足元に、割れた瓶なんて落ちてなかったしねははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!!!!」
俺は鷹志さんの腕の中で、人形のように大人しくしていた。鷹志さんがくすくす笑って、俺の頭を撫でる。
「しかし、鴇也もひどいよねえ、仁介くんのことほったらかしてさ。父さん母さんに呼ばれたのかな、何かあるのかな…くく、く」
俺は答えない。答えられない。言葉が見付からなかった。
「仁介くんと家を天秤に掛けてさ、家が勝ったとかだったら、嫌だね。ねえ――……」
その声は明らかに、俺に向けられていなかった。鷹志さんの首が、上を向く。釣られて視線を上へ向け、……心臓が止まるかと思った。
「鴇也?」
…なんで。いつの間に。兄さんが。
視線で人が殺せるなら、鷹志さんはもう何回死んだだろう、と思うほどの視線で兄さんに見つめられた鷹志さんは、しかし実に愉快そうに笑った。
「……鷹志さん」
押し殺しても、押し殺しきれない殺気が部屋に充満する。鷹志さんはそれすら笑って、俺を押し退けて立ち上がった。兄さんが俺の手を引っ張って、後ろへ隠した――……その手は嫌に汗ばんでいた。
鷹志さんは兄さんに笑いかけると、…それから俺を見た。してやったり、と言う笑顔だった。
「じゃ、後はお二人で。換気だけはしといてね……ははっ」
そしてそれ以上何も言わず、無責任に部屋を出ていく。部屋には俺と兄さんと、痛い痛い沈黙だけが残された。
はっと、まだ本を手にしていたことに気付いた。気持ち悪いものでも掴んでいた心地がして放り出すと、本がぱらぱらと捲れて、読み皺の付いたページで止まった。そこに書き付けられた文字が目に飛び込んできて、吐き気がした。
赤い文字で、見開き一杯に書かれた、
「ざまあみろ!!!」
鷹志さんは何も変わってやしなかった。
「…何された」
「…………え」
「何かされたんだろ鷹志に」
答えられなかった。
兄さんが振り返って、俺を睨むように見た。
「言えよ」
「………あ」
「言え」
「……別、に」
なにも。
兄さんが眉を吊り上げた。が、声色は落ち着いたままで、それが逆に怖かった。
「別にってこたあねえだろ。俺に言えないようなことされたのか」
「いや、」
「いやって何が嫌なんだよ。おい……あーもういい。当ててやる」
そして兄さんは俺へ、左腕を差し出した。俺は否定しようと口を開いたが、結局言葉は出て来ず、沈黙が深まっただけだった。
兄さんが溜め息を吐いた……自嘲とも取れる表情を浮かべて。
「お前、そんなに……」
「兄さん?」
「…いいんだ。折角帰ってきたんだ。いい機会だ」
「え?」
兄さんがぐいっと、俺を引っ張った。そして俺を引きずるようにして部屋を出る。縁側で靴を引っ掻けて、外へ出た。
「兄さん?」
返事はなかった。
「…ど、どこ行くの?ねえ?」
兄さんは答えてくれない。
「帰ろうよ、ねえ?そっちは、さ、ほら、」
そっちには、あれがある。あれが、待っている。あれが、兄さんを、兄さんの腕を――……
「……帰るゥ?」
兄さんが、足を止めた。
「帰るって、どこに。久藤か?九十九か?どこに帰りてえんだ、お前は」
「…………」
「……答えられねえ、か」
兄さんが独り言のように言った。そしてまた、俺の手を引いて歩き出す。森の奥深くへ、足を向けようとする。
「……兄さん、やめて」
兄さんは振り返らない。
「駄目。そっちは駄目。そっちは……」
俺は精一杯手を振りほどこうとした。が、むしろほどこうとすればほどこうするほど、拘束はきつくなる。
「……やめて。やめて、お願いだから、そっちにいかないで、駄目、駄目………や、…やめて、やめてください。やめてください……!」
いつの間にか俺は、大声を上げて泣きじゃくっていた。兄さんの腕を振りほどこうと、子供のように喚く。
「…ごめんなさい。兄さんごめんなさい、もうしないから、許してください……」
「何で、」
兄さんの爪が腕に食い込んだ。再び足を止め、振り返った兄さんの表情は、泣いているようにも怒っているようにも見える、複雑な色をしていた。
「何で謝るんだよ……お前は何も悪くねえじゃねえか!!!!お前は、そんなに、俺が、」
……信用できねえのか。兄さんは吐き捨てた。
「俺はお前を許してる。ずっとずっとずっと、ずゥっと前からお前を許してるだろ?お前がお前を許せないだけだろ?俺が許してんだから、いい加減、お前もお前を許せよォ……!!!」
兄さんが、痛いくらいに俺を抱き締めた。痛いくらい、じゃない、痛い。腕も身体も心も、全部痛い。でも兄さんはもっともっと痛いだろう、痛かっただろうと思うと尚更泣けた。
「くっそ……!!!」
兄さんが悪態を吐いて、より強く俺を掻き抱いた。兄さんもいつの間にか泣いていた。
俺達は、何も変わってやしなかったんだ。まだ、家が怖い。まだ、あの木が怖い。古傷が痛い。お互いを失う恐怖が、消えない。
「兄さん、……帰ろう」
「どこへ?」
兄さんがさっきと打って変わって、気弱な声で言った。迷子の子供みたいな、そんな感じ。俺は兄さんを抱き締めた。震えるその背を、愛しいと思う。兄さんだって怖いんだ。
「兄さんが居るところなら、どこでも……でも、ここじゃない」
「うん」
「帰ろうよ」
「うん…」
ジワジワと蝉が鳴く。ざわざわと木が揺れる。あの日と何が違うだろう、今日が。
一日一日は森に取ってはただの繰り返しでしかない。もう十年も前のあの日も、今日もほとんど変わらない。同じような日を、幾千も幾万も繰り返している――……が、
一日一日は、俺達に取ってはその一日一日が全く違うものなのだ。昔の積み重ねで、今日がある。あの日があったから、今日こうしていられる。俺の掴むこの左腕を、愛しいと思える。
確かに、そう思えた。
「……良かったのか、本当に?別にこのまま帰っても……」
「いいんだってば、もう。心配しすぎ」
そう言って笑うと、兄さんが複雑な表情を浮かべた。躊躇いとか困惑とか、…そんな感じ。
俺達は森の中を、草を踏み荒らして歩いていた。目指すのはもちろん、あの木だ。
あれが起こる前はあの木の下でよく遊んだものだったなあ、なんて懐かしい気持ちすら沸き上がってくるあたり、俺も成長したんだろうか。
鷹志さんのことを、兄さんは俺の罪だと言った。もちろん兄さんがやろうと思ってやったわけじゃない。偶然の巡り合わせでああなってしまったわけだけど、兄さんのせいでああなってしまったのは事実だ――……どうしようもない。鷹志さんは鷹志さんに取って大切な何かを見つけられるまで、きっとあのままなんだろう。
「仁介」
「なに、兄さん」
「……お前、俺の左腕のこと、どう思ってる?」
「んー……」
俺がその問いに答える前に、俺達の眼前に森を掻き分けるように、あの木が現れた。
夏の太陽を浴びてきらきらと輝く緑の葉。ざわざわと風に揺れる音。俺はどうしてあんなにも、この木が恐ろしかったのだろうとすら思った。
そっと木肌に触れてみる。ぼこぼこした木肌も太陽を浴びて温かく、そして土の匂いがした。
「大好きだよ」
「……へ?」
「さっきの答え」
俺は兄さんの方を見ず、変わりに木を見上げた。生きている。俺も、兄さんも、木も、こうして、生きているんだ。
「兄さん、誓ってくれる?病める時も健やかなる時も辛い時も痛い時も苦しい時も悲しい時もいつもいつも――……俺を、あいせる?」
「…………はあ?」
何言ってんだ、と兄さんが苛立たしげに眉を寄せた。
「お前は、本当に、」
はああー。深い溜め息。兄さんに拒絶された時のことを思い出して胸が痛んだ。次いで、鷹志さんに引っ掛けられた時のことも思い出す。俺は目を伏せた。
兄さんがまた溜め息を吐くのが聞こえる。はあ。……兄さんの指が、顎に触れた。
「……ん。こんなに愛してるのに、何でわかんねぇかな、もう。」
ぽかん、とする俺にもう一度口づけて、兄さんが笑った。
「狸面して、かァわいい。」
「ああ……」
ああ、この人に聞くだけ無駄だった!ああ……もう!
しかし俺は悪態を吐くかわりに、兄さんに抱き着いた。兄さんも呵々と笑って、俺を抱き締め返してくれる。
「じゃ、サクッと帰ろうか。俺もう仁くん不足でもう辛いです」
「何を言ってるんですか貴方は……雰囲気ぶち壊しじゃないですか」
「いいじゃん!!!!!それともここでしてくれるの!!!!!!」
「黙れ色魔!!!!!!!!!」
俺は深く溜め息を吐いた。何にってそら兄さんと、そんな兄さんを好きな自分と、…そんな自分が嫌いじゃない自分に向けて。
この人と暮らして行くのは、苦労が堪えないなあと今更思う。それも、こうなった以上……事実婚した以上、尚更。それでもそれを、わくわくした気持ちで受け入れている自分がいた。あーもう俺も、馬鹿だなあもう。
…ふと、掌に温かいものが触れた。木から目を逸らして手を見下ろすと、兄さんの指が、俺の指に絡んでいた。
目が合うと、兄さんは心配すんなと笑う。俺は呆れた、しかし清々しい笑いで返した。
――……兄さんが木を穏やかな目で見詰めて、俺の手を引いた。