帰りたいと想えば想うほど、屋敷へ向かう足は遠退いていった。
もう何日帰っていない?もう何日、この昏い路地裏に横たわっているだろうか。
思考はもう何日もの間、ごみのように放置されていた。『思考停止はヒトの成長を止める―――』耳が痛い。


ごみ捨て場は、雑然としているようで実は静謐だ。匂いにさえ慣れてしまえば、朝も夜も静か。不意に襲い来る痛みに悶え苦しみ絶叫しても、誰も現れはしない。
そう言う意味ならここは、屋敷よりもずっと快適と言えるのだった。暖かい食事もベッドもないけど。あるのは腐臭漂う生ゴミと、変に柔らかいごみ袋か。しかしまあそれも、特に不満は感じていないのだった―――だってここ何日も、眠れやしないし食事も受け付けない。一度眠りについてしまえば、二度と目覚められないような気がした。空っぽの、しかし蟲を蓄えた胃は、食物を入れる度ごそごそ蠢いた。
あまつさえ、更に食物を求めて、食道を這い上がってくる蟲の鬱陶しさと言ったらない。喉に指を突っ込んで吐いた吐瀉物の中には、必ずと言って数匹の蟲が混じっている。宿主を嘲笑うように、蟲は元気だ。

「……はは」

ゆっくりと、踏み潰して、微かな愉悦を得た。蟻を潰して遊んだ子供時代に戻ったみたいだ。
屈み込んで吐瀉物を覗き込もうとした腕を、掴み起こす手がある。すると愉悦は潮が引くように去っていった―――もうそんな時間か?今は何時だ?何日だ?


「バーサーカー…」

応えるように、涎を垂らした唇がほう、と鳴いた。乱れた髪が掛かった瞳は、焦点が定まっていなかった。――供給。供給か。英霊を現世に留めておくためには、定期的な魔力の供給が必要だ。

そうだ、とばかりにバーサーカーがまた吼える。尖った爪が掴んだ腕を引っ掻いて、どこか遠い痛みと共に一筋の血が流れた。一瞬だけ、バーサーカーの焦点が定まって血の赤を見ていた――堪えきれないとばかりに荒い息を吐く。俺の『よし』を犬猫のように待っている。

俺のこの、バーサーカーは、言わずもがな、理性を持たない化け物だが、『待て』はでき――…る時もある。大体は言うことを聞かない。俺がマスターだと認識しているのかも怪しい。食糧くらいにしか認識されていないのかもしれない。
魔力を詰めた肉のふくろ。おべんとうばこ?いや虫かご?


「―――好きにしろ」

諦めたそぶりで吐き捨てた。
わざと自分の無力さを悔むようなポーズを取ってみる。指一本も動かすのが億劫でしょうがない不調を恨んでみる。そんな言い訳をしてみる。―――本当はただ欲しくて堪らないだけなのに。

「好きにしろ、バーサーカー」

本当はただ。
……ただ誰かの体温が欲しい。寒いんだよ、わかるだろ?
半ば腐った身体を、少女に晒すことは疾うに諦めた。――ならば奴隷、お前でいい。


「好きに持ってけ。化け物め」

言い切るが早いか、俺はバーサーカーに腰を掴んで引き寄せられていた。何日も風呂に入ってない、脂ぎった髪の向こう、バーサーカーの爛々と光る瞳がすぐ近くにあって、本能的な恐怖に背筋が冷える。

「う…」

バーサーカーのぬめる舌が、先程裂いた手首に触れた。冷えた身体に、火傷しそうに熱い。

バーサーカーはねっとりと血の雫を舐めあげてから、唇を付けて、尖らせた舌先で傷口を抉った。ぐちゅっ。知れず噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。
――すると不意に自分の唾液の味を意識した。何日も磨いていない歯はざらざらしている。すごく気持ちわるい。
地面に向けて吐き捨てると糸を引いた。頬が冷たい。拭いたいけど、手はバーサーカーに取られている。今更離してくれとも言えない。

「…はは。」

おぞけとは違う意味で背筋が震えた。堪えず漏れた笑みを咎めるような常人はもういなかった。

「それじゃ、騎士様じゃなくて吸血鬼だ…」

唾液と血とに顎を濡らして、バーサーカーはぴちゃぴちゃと傷口を舐めていた。ミルクを舐める猫のよう。
喀血したみたいなバーサーカーの顎を脱ぐってやろうとも、やはり腕がない。いやまだある。
『欲しいならやってもいい』?一ヶ月後には無用の長物。『要らない』?

騎士なら今すぐ俺の手を裏返しなさい。手の甲にキスを。


「……ん。ん?」

手首に唇を付けたまま、バーサーカーが上目に俺を見て、ぐるる、と鳴いた。
「なんだ…」
声を掛けると、バーサーカーは顔を上げた。離れた唇が手首と糸を引いている。それは見ている間にぷつりと切れ、またバーサーカーの顎を濡らす。

「……なに」

ろくに人語を介さないことは解っていても、人のカタチをしているもんだから、ついつい声を掛けてしまう。バーサーカーが顔を寄せてくると、むわっと濃い血の匂いが漂った。…あんまりいいもんじゃない。肉食獣に覗きこまれるのとどこが違うか。血に興奮する性質でもない。その方が楽だったろう。この戦争で。


バーサーカーの顎から落ちた液体が、俺のパーカーに小さな染みを作った。鼻の曲がりそうな血と皮脂の匂い。
乾いた指先が頬に触れたが、それはもちろん、頬を拭ってくれるためではないだろう。むしろもっと汚すための。
すぐ側で、吐息だけのささやき。「m、s……」


――手首のキスは、欲望のキス。