これは自殺なんだと思うことにしている。





食い物の好き嫌いはない。まあそら、腐ったものとか、どう考えても人間が食べるものじゃないものとかそういうのは勿論、慎んで遠慮させて頂くことにしてるけどさ。これと言って嫌いなものもなく、おいしく食べられるのは美点かなと思ってる。
んだけど。
ちょっと困ったことに、肉はあまり得意じゃない。ずっと昔から苦手だった。…とかじゃなくて最近、急に遠慮したくなってきた。
どうしてかって?あんなうまいものをどうしてって?…はあ。君にはわからないよ。平凡な環境で、生死の価値も重みもわからず、のうのうと、差し出されたものを食べることしか能のない君にはさ。
は?それでも知りたいって?は、言ったって君には理解できないんじゃないの……はあ。じゃあ君の好奇心を賞賛しつつ敢えて説明してあげるとさ――……





新宿のとあるカメラ屋。
八ミリだとか何だとか、マニアが泣いて喜ぶような、言い換えるならマニアでないと喜ばないようなカメラが、今やほぼデジタルカメラに淘汰されてしまったそんなカメラが、未だにぴかぴかのままショーウインドウに並べられている、もしかして俺はタイムトリップして違う時代に紛れ込んだんじゃないか?って思いたくなるような時代錯誤なカメラ屋。
そのカメラ屋のとなりに、これまたこのご時世ほとんど見掛けなくなった明治大正ロマン、なんて言いたくなる黒い階段がある。その長い階段を、板を踏み抜きそうなスリリングと共に一歩一歩下りると、眼前に現れる知る人ぞ知る喫茶店【浴室】

健康志向が広がって禁煙の喫茶店が増えた今も、喫煙を許す【浴室】は微かにジッポライターの油の匂いがする。だから俺はここに来るといつも、煙草はマッチで火つける方がうまいんだよ、と言うことを客に説いて回ってあげたくなる――

と。
「…いらっしゃいませ」
いつものように【浴室】の一番奥の席(俺はこの席にしか座らない)に俺が腰を下ろすと、いつものように【浴室】の老齢のマスターが珈琲を運んでくる。草臥れたウェイター服と微かな加齢臭。
いつものように、どうもと微笑んだ俺に彼はいつもの気のない会釈をしカウンターに戻った。
まるでループに紛れ込んだみたいだ、と俺はいつものように笑った。


【浴室】にはわりと良く来る。
と言うかむしろ来すぎて、この席が半ば俺の指定席と化しているレベルだ…一人で来ることもあれば、女を連れ込むこともあった。そう、この席は、"臨也"と"奈倉"と"甘楽"。三人の指定席なのだ。


『本当に大変だったね』
隣に座る奈倉が憐れむ表情を浮かべた。
『もう無理しなくていいんだよ』
奈倉が差し出したハンカチを女が受け取った。彼女の前に置かれたケーキは、すでに彼女の涙でどろどろに溶けはじめていた。塩とクリームの甘ったるさと、ジッポライターの油と煙草のフレーバー。それがごっちゃになった吐き気を催すような匂いを胸一杯に吸い込んで、奈倉はまた話始める。
『楽になろう』


『そう言えば聞きました?』
向かいに座る甘楽が軽快にキーボードを叩き始めた。
『この前また首なしライダーが出たんですよー!』
甘楽は極めて楽しそうに、根も葉もない噂をネットに垂れ流し始めた。小さな情報に長い尾ひれを付けて、情報の海を泳ぎ回させる。いつか、育った"魚"が大魚となって襲い掛かってくる図を夢見ながら、
『ねえ、太郎さん』
静かな店内を侵す打音。立ち上る珈琲の香り。そして甘楽は世界を侵す。
『ダラーズって知ってます?』

「…揃いも揃って迷惑な奴ら」
こまったなー。臨也は大袈裟に溜め息を吐いた。
『おいおい』『ちょっと!』
奈倉と甘楽が顔をあげる。奈倉は苦笑し、甘楽はぷりぷりと怒った。
『『お前が言うか!』』

「言うさ」
からんころん。【浴室】のドアベルが来客を告げた。一斉に振り返った二人は、おんなじ顔で目を見開き、…ああ。と意味ありげに笑う。臨也は振り向かなかった。肩をつつく二人をしっしっと追い払い、余裕げに珈琲を一口飲んだ。いらっしゃいませ、とマスターが小声に言う。
…ウェイターがバーテンに会釈ってのもどうなの、と臨也が笑ってカップを戻した頃には、奈倉も甘楽ももういなかった。代わりに目の前には、甘楽がよく使う噂の主が座っていた。クリームの匂いも塩の匂いもしない。キーボードを叩く打音もしない。そうここからは、"臨也"の仕事だ。


『やあ、待ってたよ』
彼は無言で俺の向かい、つまりさっきまで甘楽が座っていたそこに腰を下ろした。どすん、と鈍い音。もうちょっと穏やかに座ることはできないのかなあ?
「…指輪」
「ん?」
「どうしたんだ」
そんなことを訊かれるとは思ってもいなかったから、正直ちょっと驚いた。意外と見てるんだなあ、と呟くと睨まれた。俺は苦笑して見せる、
「あれね、あげちゃった」
ひらひらと空の手を振って見せると、シズちゃんはその手をじっと見て、一言。絞り出すように、…誰に。と訊いてきた。これまた驚き。
「珍しいこと訊くねー。でもヒ・ミ・ツ☆」
「喧嘩売ってんのか」
「はは、やーだなあ。冗談だよ冗ー談。でも、教えたくないのは本当」
「…………」
シズちゃんは俺が指輪を嵌めていた辺りを食い入るようにじっと見つめると、ち、と舌打ちして目を逸らしそれきり何も言わなかった。もしかしたら案外、もうもう一つの指輪に出会っているのかもしれない。一体どっちに妬いてるのかな……
俺は指輪を見せ付けるように指を組んだ。

『何で今日呼び出したか、わかる?』
臨也の言葉に、平和島静雄が舌打ちした。知るか、お前の考えなんかわかるもんかと言う。
『本当にわからない?』
臨也は追い討ちをかけた。がたん、静雄が拳をテーブルに叩き付け、珈琲カップが不安定に揺れる。臨也の唇に浮かんだ笑みは嘲笑。奈倉よりも非道で、甘楽よりも迷惑で、そして狡猾な――……それが臨也だ。

『君さあ…』
ぴくりと静雄の指先が揺れた。言うなと、全身が拒否しているようにも見えた。ああかわいそうだなあ、臨也は笑った。手負いの獣ほど可哀想なものはない。

「俺を殺したくなくなってきてるでしょ」



《長い沈黙。》



珈琲に口を付けると、それはもうとっくに冷めきっていた。アイス珈琲って薫りが飛んでる気がしてヤなんだよね、と俺は独り言を言う。と、マスターがさっとやって来て珈琲を変えてくれた。ありがとうと笑った俺に、マスターはまた気のない会釈をする。
マスターはシズちゃんの前にも珈琲を置いた。シズちゃんがはっと顔をあげて、びっくりした顔でどうもと言う。マスターは軽く会釈をするとカウンターへ戻った。シズちゃんがふらふらと頼りなくカップを持ち上げる――

「今なら殺せるよ。シズちゃん」
シズちゃんの手が止まった。微かに震えているようにも見える、手。俺は意地悪く言う。
「手、伸ばしたらいいよ。俺の首を掴んで、左にでも右にでも、好きな方に捻ったらいい。それで」
「やめろ」
「……終わりさ」

俺は珈琲カップを持ち上げた。黒い湖面に、俺の顔が歪んで映っている。一気に飲む気が失せて、俺はカップを下ろした。

「…どうして」
「あん?」
「………どうして、そんなこと言うんだ?」
シズちゃんは泣きそうな声で言っ――ああ、不愉快。最悪。ありえない。俺は大袈裟に舌打ちする。
「……俺が困るんだよ」
"臨也"も、"甘楽"も、"奈倉"も。

「困るんだよそれじゃ。シズちゃんの人間形成なんて、俺にはどうだっていいんだよ。力のコントロールを覚え始めて、これから、暴力なんか奮わずに、"優しく"暮らしていけたらなんて夢見事思ってるんでしょ?だから俺のこと――……」
「違う」
「違わない」
「違う!」
珈琲カップが転んで、テーブルクロスが黒く染まった。ああ、乾いた血の色だ。
「おい殺人人形」
「違う」
シズちゃんがサングラス越しに俺を睨んだ。…まだ、まだだ、憎悪と呼ぶにはまだまだ弱い――そんなもんじゃないだろ?

「逃げるの?」
「…違う」
「逃げるんだよ、シズちゃんは。これまでしてきたこと忘れて、"平和"なんてものへ、さ」
「違う」
「違わない…それってさあ、ずるいよね。すっごく、ずるいよね?」
「…………」
「シズちゃん?」
「こ、」
「なに?」
「ころ、」
「聞こえないよ」
「……殺してやる」

…そうだ。


「俺今日さ、シズちゃんを殺す夢を見たよ」
シズちゃんはもう頷きすらしない。シズちゃんが不機嫌になるほど、俺が上機嫌になるってのは不思議だなと思う。俺は笑って続けた。
「俺シズちゃんのこと嫌いだけど、シズちゃんの中身は綺麗だった。裂いた腹から溢れた臓器はピンク色で、血は赤のイデアって言っても良いくらい赤くて、俺はシズちゃんを初めていとおしいと思った」
本当のシズちゃんの中身も、あれぐらいうつくしいのだろうか。シズちゃんの中をあのうつくしい液体が駆け巡っているのを想像すると、俺はシズちゃんを少し愛せる気がした。
「♪洗って、切って、水の中…」
俺はシズちゃんと真っ正面から見つめ合った。切り裂くような視線を気持ちいいと思う。
「……起きたら夢精してたんだ。笑う?」

シズちゃんは笑わなかった。


「俺の夢を見てよ」
俺は伝票を掴むと席を立ち、伝票に万札を重ねてマスターに渡した。奈倉と甘楽が楽しそうに肩を叩いて行った。俺は自嘲すると、振り返ってシズちゃんを見る。シズちゃんはさっきまで俺がいたあたりをじっと睨み付けてそこに座っていた。
退屈が怖いのさ…俺は嘘を吐かない。きっと俺を退屈させないために、カミサマは俺とシズちゃんを引き合わせたんだろう。

外はいつの間にか夜になっていた。ほとんど星の見えない都会の空を、それでもうつくしいと思う。ひどく煙草が吸いたくなって、俺はポケットに手を入れた。ジッポの油の匂いの染み付いたジャケットを着て、煙草を吸わないのはもったいない気がしたんだ。が、ポケットに入ってるものと言ったらナイフぐらい。俺は自分の健康志向を後悔した。
口寂しさに唇を舐めると珈琲の味がした。言い忘れたが、俺は【浴室】の珈琲の味が嫌いではない。ケーキは甘ったるくてあんまり好きじゃないんだけど。
電灯の回りに飛び交う蛾を見て、あれが人間だと思う。光に群がる蛾のような、輝かしいものに惹かれずには居られない愚かな生き物。そんな人間を愛する俺はもっと愚か、死に値するほど……

「♪言ったでしょ俺を殺して……」



食べたい肉を前にして、他の肉が食べられる?